ザッツ・エンタテインメント partII

昨日の夜だが、Prime video(レンタル)で、ジャック・ヘイリー・jr.、ジーン・ケリーザッツ・エンタテインメント partII」を観た(途中で寝落ちしたけど…)。

なるほどたしかに、マイケル・ジャクソンフレッド・アステアを参照していたのだなとわかる。それは、マイケル・ジャクソン本人の、フレッド・アステアへの憧れ、あるいはこうあるべきという規律・規範のようなものだったのだろうか。いずれにせよ、砂を撒いたステージ上をタップダンスするフレッド・アステアを見れば、誰もが、This Is Itで一人ステージに立っていたあの面影を重ねてしまうに違いない。ダンスの種類は全然違うのに、あらわれているもの、醸し出されているものは、とてもよく似ていた。

あとフランク・シナトラが超絶若かった。フランク・シナトラにも若年の時代があったというのは、発見だった。

木場

ダムタイプの展覧会を観に行かなければと思って木場の現代美術館へ向かう。清澄白河駅に着いたら、美術館までの景色が、なつかしいようなそうでもないような、途中の商店街も、雰囲気が変わったようなそうでもないような、何か不思議な感じがする。景色だけではなくて、通りを行き来する人々の雰囲気も、今まで自分の記憶にあった感じと微妙に違うような気がする。とはいえ前回木場の美術館をおとずれたのは昨年四月のことだし、それ以前になると美術館自体が長期休館していたせいでもあるがもっと大きく間隔が空く。いずれにせよさほど自分の記憶にあるわけではない景色のはずだが、しかしこの二、三十年といったスパンで考えれば、さすがにこれまで何度となく訪れてはいる場所の一つだし、そのくらいのスパンで記憶を参照したうえでのこの感じが、今日の不思議な違和感なのだ。ともあれ景色にもまして人が違う。これは要するに、人々が若いということじゃないかと思う。単純な話。たぶん同じ方向に向かって歩いているから目的地も同じなのだろうが、本来自分らとは生息地が別な、やけに若くて華やいだ人々と共に歩いてる。

やがて建物が見えてきて、それと同時に入口付近を覆う人だかりが見えて思わず唖然とする。あれはまさか、これからチケットを買おうとする行列なのか?いつもなら閑散としてるはずのエントランス手前まで近づくと、はたしてどうやらこれはチケット未購入の人が並ぶ列らしいのだ。それが仮設の柵にしたがって何重にも折れ曲がりつつ館外まで続いているのだ。比較するのもアレだが去年老舗の鰻屋に並んだときの何十倍もの行列である。いくつかの企画展が同時に催されていて、それらのどれかかあるいはすべてが人気を集めているのだと思うが、やはりどうも自分には、今日ここで起きている出来事の一切がよくわかってない、始終その思いだ。たとえば印象派や京都の屏風絵などの展覧会が大人気だから行っても入場できないかもね、などと予想するのはたやすいと考えるが、まさか今日こんな行列を見ることになるなんてまったく予想外だった。いろいろなことが、いろいろと、わからなくなっていくなあ…と思う。

というわけで早々に離脱して木場公園を散歩することに。園内の一角にこじんまりした植物園が設営されている。ほとんど何も咲いてない荒涼たる花壇の区画に沿って、寒々とした冬の景色のなかを歩く、この我々夫婦の習性というのか、宿命というのか、これも不思議に謎めいた反復に思うのだが、なぜ我々は毎年毎年、真冬の植物園に慣例の如く訪れるのか、少なくとも真冬の屋外であれば大抵の植物が生息活動を沈静化させていて、結果として園内ほとんど見どころも無い、商品がほとんどありません的な、あたかも災害翌日の食品売り場のどの棚もすっからかんみたいな様相を呈していて当然だ。枯淡とか虚無とか諸行無常とか、そんな心象を味わうにはふさわしいかもしれない、とまで言うと大げさでこの時季でもスイセンとか梅とか、春を待つ冬芽だとか、数少ない見どころはあることはあるが、しかし黒黒と広がる、所々朽ちた枝葉の散らばった冷たい土の上に、ひたすら植物名の立札だけが白く突き立っているばかりなのを見てると、これはほとんど墓参りに近いなと思う。まあ我々の場合、青山霊園とか谷中墓地だって目的もなく散歩するには絶好のコースだと思ってるフシもあるので、やってることは今日もさほど変わりないともいえる。そういえば今シーズンは未だ行ってないけど、冬になると板橋区の赤塚植物園に行くのも恒例だったなと思い出す。あれもまさに、なぜわざわざ今…と思うような謎の行動だ。あの夫婦、二人とも頭がおかしいのでは…とか受付係のおばさんに思われてそうだ。

公園を離れ、川沿いを歩きつつ大横川に掛かる二つの橋を渡って歩き、やがて再び美術館の真裏に出た。江東区も水の土地だ。夕食前の時間に軽く寄り道と思って北千住の店に電話したら定休日、もう一軒も休み、退路を断たれた、いや退路以外のすべてを断たれた。大人しく帰宅することに。今日は何もかもアテが外れる日。

Fdf

CEROの新曲「Fdf」が素敵だ。わかりやすくてキャッチーで大ヒットしそうだ、とは、全然思わなくて、やや地味でお高くとまってる感も相変わらずあるが、しかし抜群にセンス良くて、親しみやすさや人懐っこさもあって、その匙加減がまた絶妙にいい感じだ。しかしどのへんの音楽を参照したのか、あからさまに何かを参照した、何々風…という感じではなくて結果的にこうなったのだと思うが、しかしどのへんの音楽が、制作時の"支える杖"になったのだろうか。往年のディスコ的でもあるし70~80年代的でもある気がするのだが、よくわからない。知ってる人なら「あれっぽさでしょ」と即答できるのかもしれないが。まあ、いずれにせよいい感じで、リピートしたくなる。何度も繰り返し聴きたくなるような一曲に出会えるのはいつになっても嬉しい。

日本蒙昧前史

磯崎憲一郎「日本蒙昧前史」最終回を読んだ。たぶん自分のどこかに、自分でも気づいてない嫌なネガティブな痣のような滲みがいつの間にか出来ていたのを、小説がその汚点を正確に突いてくる感じで、読み進むと次第に不思議な前向きさが心身に溢れてくるかのように感じた。

世の中悪くなる一方だし、若い人たちも皆、不安をかかえてるし、べつに長生きしたいとも思わない、苦労するのも嫌だし、この先悲しい思いもしたくない。ジリ貧に追い込まれて、世間の世知辛さや、他人を見下す傲岸な態度に耐える気力もない。金を貯めこんでるやつだけが生き残れる世の中の端っこに最後までしがみつきたいとも思わない。むしろ、とっととオサラバした方がいい、好きにしろ、勝手にしてくれ、自分は先に行くよ、ではサヨナラ…などと思っているうちは、まるで甘い、浅はかで愚劣で不遜。そういう雑な考え方こそが罪悪なのだと。

我ながら、馬鹿な感想だとは思うが、それこそ明日以降を怯まずにベタに生きてやるという気概をもらうというか、面倒事や不安や苦悩や悲しみを背負ったとしても、それはそれとして、死の前日までは毅然と生きてやろうというやる気が漲ってくる。この先、ますますロクでもないことばかりだったとしても、悲しみと苦痛しか与えられなかったとしても、与えらえた条件下で、その感覚の只中をしっかりと感じ取ってやろうじゃないかという気が漲ってくる。

適当にタカを括って斜に構える怠惰さ、そんな身勝手な思い込みによる自己判断、「救い難く深い自己陶酔、その不遜さ」を、この小説は厳しく批判する。「小説の行く先は、作家ではなく小説が決めるのだ」という言葉は、人間一人の判断に如何ほどの力もない、それを認識し、謙虚に、つまり厳密に、耳を澄ませて、本当の進むべき道を示す声を聴けよ、という言葉でもあるだろう。それは国家とか教育とか戦陣訓とか世間の評判とか、それらの示す先ではなく、もっと別の彼方からの声であるはずだと。そんな声が、いったいどこから聴こえてくるのか、内実が無いではないか、言うは易しではないか、それこそキレイごとではないか、いや、けしてそうではないと、その声の感触そのものを描こうとする、この小説はその挑戦であろう。

ただ無心に生きる、そのためだけにあらゆる力を注ぎこむということ、これまでの知恵と経験を注ぎ込んで、今日と同じ明日を迎え、生きながらえるということ、それは真の意味で、創造的なことだ。

来たる苦痛や悲しみを恐れるべきではない。想像上の未来のそれは、自分の怯えに冒されている矮小なイメージに過ぎないからだ。それら痛みや悲しみは、現実にそれを受け止めたときの私にとって、苦痛であると同時に、取り替えのきかない、自分にとって掛け替えのない何かでもあるのかもしれないのだ。そのような無根拠な楽天性こそが、希望なのだ。歴史上の夥しい悲劇を生き抜いた人々を支えたのも、おそらくそんな希望であったはずだ。とにかく絶望しないこと、嫌なものから目を背けて誤魔化さないこと、げらげらと笑いながらそこへ向かって進むことだ。そして、やるべき仕事を続けるということ。

完全に舞い上がってる系の、高揚した文章になっておりまして、すいません。

昼過ぎに、六人集まって飲み会。えぇ…なぜ昼から?当初、僕は反対したのだが、賛成多数で決行。通しでやってる大箱の店、アラカルトで注文しつつ適当に飲む。丸の内のオシャレビルの中にあるオシャレな店だが、料理は予想を下回るつまらなさ。まあ、そもそもこうして呑むような店ではないのだ。店を出たあと皇居の桔梗門あたりの広場をふらふら散歩する。広くて何もない千代田の空虚の中心。人通りは少ない。風は冷たくも晴天の日差しが降りそそいでおり寒さに震えるほどではない。日比谷公園の方向へ歩いて、途中そそり立つ楠木正成像のあたりに来て、台座の上を見上げる。明治時代建立、キメキメのアニメキャラ戦国武将みたいなブロンズ像が空の一角を覆いかくしている。その後またビル街へ戻り近くのカフェに流れてふたたび飲みはじめる。何度も言うけど、みんな本当によく飲むようになったね。暗くなる前にいったん解散し、残留者はさらに移動、はるばる向かうは板橋区大山駅のうつくしい商店街の途中にある店。Eさん顔なじみの店員の最近の転職先とのこと。この子いっつもイケメンイケメン言われているけど、よくよく見るとたしかにカッコよくて、笑顔に屈託なくてさわやかでナイスガイだ。大昔ならテレビでしか観れない外見かもなあ。そしてここでもまだ飲む。しかもこの期に及んで本気のオーダー、本格的に飲む。飲み過ぎる。今日も最初から最後まで、延々ワインばかり。くたくたになって帰宅。妻に「ごめん、すごく遅くなって…」と言って、よく見たらそれは妻じゃなくて、駅前のぺこだった。

 

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trattoria

桜木町には以前ほど来なくなった。横浜駅からわざわざ一駅移動するのが、意外に面倒だからだ。しかし今日は久々の野毛、近況報告の会、金曜の夜、予約なしでもひしめき合った店々の、ちょっと巡れば苦も無く何処かしらには入れるはず。入れた。trattoriaのカウンター席。ワインばかり飲む。何かこう、もう少し後味というのか、飲み甲斐というか、何かしら、もう少しだけ思いの底辺に、ガッときてほしい、最初のグラスを傾けつつそう感じている。何が足りないのか、あるいは足りすぎているのか、漏れ抜けが多いからなのか、むしろそつなく出来過ぎてるからなのか、わからないまま、うわべは滞りなく時間がながれる。

ガチャガチャ

おもちゃ売り場とかスーパーマーケットの片隅とかに並んでいる、お金を入れてハンドルを回すと丸いカプセルに入った何かがゴロっと出てきて、中にはキャラクターのフィギュアとかが入ってるアレ。僕にはまるでわからない、よく知らない世界の話だが、ああいう玩具を夢中になって集めている人は年齢問わず多いらしくて、あろうことか僕の隣に座る上司もそんな人だったことを今日知った。月曜日と、一昨日にこれをゲットして、で、昨日出たやつがこれで、一回り大きくて、これは「当たり」だったとか何とか、成果を眺めながらまんざらでもなさそうな顔をしていて、思わず言葉をうしなう。…これ集めて、、どうするんです?と、まるで妙なものに夢中になっている子供に対して頭ごなしに無理解を示す親御さんのような態度をとってしまった。…いやたしかに、だれが何をほしがって何に夢中になるかなんて、その人の勝手だしいくらでも好きなようにして良いはずだしその自由こそ尊重すべきだとは理解するのだが、…それにしてもこれは・・「こんなもの」に夢中になれるとは…。と、自分の無意識化の根底にある頑なな偏屈性・認識外への無理解性が、いままさに露呈しているのだった。それでも表面上は苦笑いの体で、いやいやいや、まあわかりますよ、きっと集め始めたら躍起になってコレクションをコンプリートしたくなるんでしょうからねとか、とってつけたような言葉でありあわせてその場をやり過ごそうとして、でもこれって、一回いくら掛かるんです?と軽い気持ちで聞いたら、一個四百円だと云うその返事を聞いて、おもわず本音の「えー!?」という悲鳴に近い嘆息が出てしまった。四百円だって??信じがたい。カジノで一晩に何百万円使いますとかの言葉と同等に近い重みを感じ取ってしまう。この世にこれほど深き退廃・ニヒリズムも、そう無いのではと思わせる、たかだかこんなものが、四百円だとは…。それを何度も何度も、気に入ったものが出続けるまでひたすら投下し続けながら無表情に待つとは…。聞けば上司の投資額など世間の相場に較べればまるでかわいいものであり、所謂「ベテラン」、もはや末期症状みたいな酷い状態の患者が月々に投下する額は桁がマル二つも違うとのこと…。すごい話だ。これだから世の中はわからない。四百円あったら、安い立ち飲みならラクに一合呑めるのになあ…。