焚き火

志賀直哉の「焚き火」は、主人公夫婦とその知り合いたちが旅館に滞在中のひとときを描いたもので、ああ、こういう旅行はいいなあとつくづく思う。というよりも、これを読んでいるのがそのままとても快適な旅行体験そのものという感じだ。雨の一日、皆でお菓子なんかを食べながらトランプしている。なんとなく飽きてきて、誰かが思いついたように窓を開けると、いつの間にか雨がやんでいて、外からすーっとするような新鮮な空気が室内に入ってくる。それで、皆でちょっと離れたところの小屋まで行ってみようとなる。すばらしい夕暮れをはなれの小屋で過ごし、さらに日が暮れて晩になったら、皆でボートに乗って小さな島まで行こうかという。島に上陸するとまだ火の絶えてない焚火跡を見つける。蕨を取りにきて洞穴の奥で眠っているらしい焚火の主の姿は見えない。肌寒いので彼らも火をおこす。湿っていても、白樺の皮を使って上手に火をおこす。火を囲んでまた皆でひとしきりお喋りする。そろそろ帰ろうかとなって、焚火の火を消し、火種の残る薪を湖へひとつひとつ投げ込む。火の明るさが弧を描いて飛び、じゅっと着水して暗くなる。それがくりかえされて、やがて暗闇が戻ってくる。

ちょっとホラー映画の登場人物たちが、殺戮に巻き込まれる前の、まだ楽しい時間を過ごしている時間だけで出来てる話という感じもする。親密で楽しいひとときのなかに、何か妙な胸騒ぎをおぼえるような、得体の知れない不安感がただよわなくもない。Kさんの昔話も、母親の超能力が遭難寸前の自分を救ったみたいな話だし、焚き火の主も結局最後まで姿をあらわさない。でもたぶんそれは思い過ごしで、実際はただ平穏な時間が続くだけだ。不安も平穏も好きに感じ取ればよい、勝手にすれば良いような、なんでもない時間なだけである。

武者

昨日引用した藤枝静男の文中に出てくる志賀直哉は、当時すでに七十歳を越えている。その年齢でも作品制作時にはあれだけメンタルが荒波立つというのが、ほとんど驚異的なことのように思う。

作家が作品をつくる、何の頼りもなく助けもない状況で、蛮勇をふりかざしてそれを押し出していく、それは誰であっても、年齢や経験を問わず、作家は自分の作品を為そうと思うなら、そういった極度の緊張と不安に翻弄されることは避けられない。先日引用した志賀直哉老人が、その壮絶な闘いから戻った直後の姿ということだ。

十五年ほど前にテレビで見た、棋士羽生善治が対局する場面、あれは壮絶だった。羽生善治といえば天才で将棋の神様で冷静で理知的で貴族的に優雅みたいな、そんな粗雑な手前勝手のイメージが一挙に吹き飛んだ。そこに見たのは、上記となんら変わらない、ことに終盤の勝負を決める寸前の局面にきて、羽生は前のめりになって盤面を見つめている、その表情が、目はうつろで、呼吸はまるで心疾患の如く浅く早く、おそらく心拍数も異常に高まっていて、ほとんど熱にうなされて朦朧とする病人そのものだった。駒を動かそうと伸ばしたその手が、小刻みに震える。観客とテレビカメラの衆目を集める中、その指でもち上げられた駒が、なさけないくらいグラグラと震えているのだ。ほとんど子供の姿に見えた。自分の狼狽や焦りを上手く隠し適当にとりつくろう術に長けた大人のやり方をまだ習得できてない、いや仮にわかっていても、そんな術など役に立たないほど極度の緊張下に心身を晒している人間の姿だ。あれほどの極限状況に毎回自分を置くのが棋士なのかと思った。かわいそうな子供の姿であると同時に、はるか以前から闘いを職業として生きている人の姿でもあった。未知の領域に身を晒すことを毎回要求される、むしろそれに惹かれとりつかれている、それは一体どのような神経なのか、もしかすると過去、歴史上の戦国時代の武士や、戦時下の兵隊も、実績を重ねた経験者であればあるほど、毎度そのように表情をこわばらせ全身をガタガタと震えながら闘っていたのではないのか。

ちなみに芥川龍之介戯作三昧」の終盤、馬琴が八犬伝を執筆するときの描写も、上記のような人間の姿をとらえたものではないかと思っている。読んだのはかなり昔だが、あれは好きで、いまだに思い出す。

バレたとき

悪事がバレた直後の人間の表情。たとえば横領がバレたとか、不倫がバレたとか、誰かをかくまってるのがバレたとか。そんな瞬間をむかえたときの、当事者の表情。あるいは、ナチス時代のドイツ軍人や、スターリン時代のソビエト官僚が、組織内論理と規定に準拠して律儀に業務を遂行するうちに、次第に不条理的な状況に陥って、最終的には粛清対象となって処刑が決まったときみたいな、いつのまにか自分がその運命にあることを悟った瞬間の彼らの表情。朝の空気のように冴え冴えとした周囲の視線を浴びながら、その場にひとり、かたまったように立ち尽くして、ぎ然とした視線でどこか一点を見ている。そのとき彼は、具体的な何かを見ているわけではなくて、ただ考えている。今までと現在とこれからを、とめどもない勢いで、一挙に考えている。まさか夢ではない、ほかならぬこの自分が、信じられない、でもいつかこんな日が来るとわかっていた気がする、こんな瞬間をこれまで何度も思い浮かべた気がする、突然の出来事で、整理しきれない思いにとらわれてるさなかの人間の表情というものがある。そういう顔を、僕はなぜか、白人男性の顔として思い浮かべてしまう。たぶんいつかどこかの外国映画の、そんなシーンで観た顔なのだろうか。取り繕う余地いっさいなしの、すべてが明るみに出たあとの、もう言い訳できない、今までたもちづづけた化けの皮が、見事にぜんぶ剥がれた、表と裏の区別がなくなった、なにもかも終わった、その直後の、ひとりの人間の表情が、なぜ外国映画の登場人物になるのか。そういう外国映画が多いからか。なぜ日本人ではないのか。日本映画にそういうのは少ないのか、単にそういう日本映画を観てないだけか。なぜか日本人は「その表情」を持ってない気がする。それが、劇的な瞬間だからか。そんな瞬間を一つの終わり、社会的な死のように思うからか。自分にもいつか、社会的な死がおとずれるかもしれないと思うからか。でもその想像が、外国映画の登場人物のかたちで思い浮かぶのであれば、自分にとって社会的な死とはつまるところフィクションの範疇にあるのか。いや、映画というフィクションの範疇にあるということではなく、表情というフィクションの範疇において、自分は社会的死をむかえた自分自身を、ある種のカタルシスのようにそのイメージに重ねているのか。

志賀氏

志賀直哉の「焚き火」「ある一頁」など、たいへんいい。「ある一頁」はとくに、自分がもともと、ブログとか日記で書きたい、文章で実現したい何かって、こういう感じだったかもなあ…と強く思わされた。

志賀作品の多くが、各登場人物たちの強烈な存在感、主人公のイラつきとか心身不調に影響された気分、あるいは出来心のような親切心、かつて無頼派から批判されたような、そこに潜むある種の図々しさもたしかに認められる気はするが、それもふくめた「この私」の対象化の試みだ。告白ではなく描写。それを読んだ感想として、小説の神様とか名人芸とか枯淡の境地とか言ってしまうのは、とてもつまらないのだが、作品そのものはやはり「おお…いいかんじ」と思わせてくれる。

ところで並行して読んでいる藤枝静男志賀直哉天皇中野重治」のなかで、若い頃の藤枝静雄が、志賀直哉の家に遊びにいってた頃の回想話。面白いし短いので全部引用する。こんなおじさん、今ならいろいろ言われそうだが、昔はこんなものだったのだろう。ついさっきまで作品を作っていた小説家の荒ぶる様子。奥さんに怒鳴ってる、いかにも昔っぽい感じ。

 昭和三十一年一月十五日、浜松から上京して志賀邸の門を入ると、露地の堀寄りに、小さな立札が立っていて「仕事中面会謝絶、但し家族への面会はその限りにあらず」という意味のことが記してあった。
 私はいったん帰ろうとしたが、持ってきたものを玄関で夫人にお渡ししてすぐ引き返そうと思いかえしてベルを押した。しかし夫人は、せっかく遠くから来たのだからとともかく入れ、と勧めて下さった。おそるおそる夫人の後ろから食堂を覗くと、志賀氏は向こうの端のソファの上に、長々と仰向けに、毛布を額までかぶって、頭だけを出して眠って居られた。少し気味が悪かった。
 私が黙って後戻りすると、夫人が「それではこちらでお茶を召し上がってから」と云われ、そう云われるとまたも私は思い切りわるく台所へ入れてもらって、煙草をのんでいた。
 食堂で、いつもの志賀氏のやや甲高い張りのある声がして「いいから入りたまえ」と呼ばれた。私は喜んで入って行った。
 氏はソファに起き上がって「ああ、しばらく、変りなかった?いつ出て来たの?」とやつぎばやに訊ねられ、それから「久しぶりで原稿書いた」と元気に云って私に椅子をすすめられた。「もう、ひとつはできて渡した。『白い線』という題をつけた。わりにうまく行った」続けて「例の『祖父』の続きにとりかかったんだけど、面倒臭くなって弱った」と云われた。いつもより少し苛々して、身のまわりの色々のこまかいことに気がつかれるように見えた。
 頬から額のあたりまで斑らに赤く上気して、眼が光って、こわい顔をしている。
 「批評家なんて無用の長物だ」、突然はげしく云われた。「原稿にも、はじめの方に書いておいた。──僕がもう興味を失ってしまっているような昔のものを色々に云ってばかりいる」。
 続けて「白い線」の筋を話され、「書く身になれば、同じようなものを何時までも書いてる気がしないのは当り前だ。昔から自分の型みたいなものを破ることに相当努力してやって来た」と云われた。「大体批評家は、向こうから小説の方に足を運んで、その人に即して考えるという努力をしない。そういうことを面倒がって、勝手に自分のワクみたいなものを持って来て人の作品にあてはめて、小説になってないとか、あそこが足りないとか、こっちがはみ出してるとか云う。こっちはそういう小説らしい小説を書くのがいやになったから、ワクをはみ出しても自分で小説と思うものを書こうとしているんだ」と不満を洩らされた。「絵だって音楽だって各人各様で、どんどん前の型はこわしてやってるんだから、小説だって勝手なことをやらしてもらってもいいだろう」。
 手洗に立たれ、途中で「廊下に水がこぼれてるから」と大声で夫人に注意された。すぐ帰りに「おい、康子」と前の三倍位の、癇癪玉の破裂したような声で「拭いとけと云ったら拭いとけ」と怒鳴りつけた。
 私は金縛りのようになって、立てなくなってしまった。仕事の気がまだ身体じゅうに張りつめている有様は本当に恐しかった。

「仕事中」 藤枝静男志賀直哉天皇中野重治」より

小人化

昨日の散歩では、自宅から図書館までを、最短コースではなくやや迂回気味に、わりといきあたりばったり、適当な道を選んで歩いていき、そうすると自宅からでも、ふと気付けばあまりなじみのない道に入ってしまったり、そのまま予想外な場所へ出てしまったりすることはある。とはいえ結果的には、大体想像の通りでこれまで経験した通りの道のりにはなる。ただし目的地到着まで異常に時間がかかったりはする。

我々の散歩コースは、ほとんど川沿いである。川沿いあるいは橋の上である。そういう場所を歩くというのは、つまり自分と周囲との距離感の変化を感じて歩くということで、ある一定の単位に区切られた空間を移動するだけのウィークデイに慣れた感覚が、川沿いや橋の上を歩くことで攪拌される。自分と視線の先にある川岸までのあいだに遮蔽物が何もないというのはすごいことだ。そのとき感じ取れる距離の大きさ、遠くを歩く人の小ささ、橋から川面までの高さ、鳥の移動スピードの速さ、それらを感じ取りながら歩く。それは自分が数センチに小人化してしまったときに身体がおぼえる感覚に近いのかもしれない。川に僕らは小さくなりに行くのだ。

猫と庄造と二人のをんな

豊田四郎「猫と庄造と二人のをんな」(1956年)の、Youtubeに上がっていたのを観た。こんな感じの女性を、香川京子が演じることがあるのか…。山田五十鈴も成瀬の「流れる」と同年にこれほどタイプの違う女性を演じるのか…。まあ役者なのだから当たり前だろうけど、同じ外見の人がまるで違った人物を演じているのでけっこう驚く。それにしても浪花千栄子の、安定感のすごさよ。浪花千栄子、すばらしいな。金持ちのおっさんに取り入ったときの完璧に作られた笑顔と物腰。ほんの一瞬だけど、いま完璧なものを見たという気持ちにさせられる。森繁久彌はまるで渥美清のようだ。というよりもこういう風貌と物腰としゃべり方の男性こそが、戦後日本における喜劇役者としての模範回答であり典型ということなのか。

森繁・浪花の親子はいろいろ苦労も多くて大変なことは大変だろうけど、でもはたから見てると、たいへん気楽で余計なものをわりきって、そして根本的には幸福で優雅で素敵な生活を送っているように見えてしまう。ことにバカ息子の森繁はまさにそうだ。なんだかんだ言っても、愚かなままの自分をそのままに肯定することこそ、最大の幸福であるなあ…などと思った。とはいえ、こういうのは現実にはありえない。観念だけの世界であるということも、よくわかってはいるつもり。でも観念だけの世界って幸せだなあと思う。ことに海水浴を楽しむ人々のあふれる天国的な海辺の景色。

谷崎潤一郎的な性愛の表現は、とにかく男性の射精という終息へ向かうことの徹底した回避なので、だから序盤の森繁は香川京子にあれほどベタベタと甘えて、脚にまとわりついてデレデレしているのだが、それが性欲の高揚ということではなく、ただただ心地よいものと触れ合っていたい、永久につつまれていたいという、フェティシズムであると同時に胎内回帰的というか、外的なものを拒否してどこまでも安穏を希求するみたいな内向性そのものとしてあらわれる。それは谷崎潤一郎のエロ表現が、つねに執拗さで常軌を逸脱しつつも、あまりエロさが感じられない理由でもあって、どの作品を読んでも、まるで男性的な欲望を感覚として知らない人が異常に粘り強い想像力の脳内イメージだけで書いてるかのようにも思えるのだ。ものすごい細部をもってるけど、いや根本的にそうじゃないんだけど…と言いたくなるようなところがある。

イワシとじゃがいものテリーヌ

午前中ジムで少し泳いだあと、最近まるで外食もしてないし、外で酒をのむ機会もないので、今日は久々に、昼から一人酒を解禁とする!となって、表参道まで電車移動。今日が入学試験当日だったのか、制服着た高校生たちがたくさん歩いてる青山学院大学沿いを、若者たちとは反対方向へ進んで電話した店へと向かう。

一度は体験してみたかった「イワシとじゃがいものテリーヌ」を食す。イワシとジャガイモ、だいたい想像つきそうな組み合わせで、だいたいこんな感じではと食べる前には想像していたのだが、それをはっきりと覆された。想像をはるかにこえてきた。

ジャガイモ、イワシ、燻製香をまとったベーコン。それらの絶妙な調和、要素が三つあるのではなくて口中ではしっかりと一つに結びついているのだが、内訳はそれらなのだ。実感として一つなのに見た目は一つじゃない、けっこう主張強そうな要素ばかりなのに、ぜんぜんやさしい、控えめで、しかし地味ではない。

自分が作るならば、イワシを加熱して、ジャガイモを茹でて、混ぜ合わせて、最後に適当なハーブでも加えれば、それで十分に美味しい。だから、大体そういうものだろうと思っていたのだが、これはそんなものとは全然ちがう。

なんというか、組み合わせの仕組みが、すっと簡単には見えてこない、あらゆる要素が、浮かんでは消えるようで、容易に解決の気持ちがおとずれない、おそらく複数の要素をかけあわせるという作業において、ここまで出来れば最高だろうし、ふつうは到底無理だと思う。

魅惑的だが、手の内すべては見えない、謎を残しつつ、食べ進むうちに料理はなくなっていく、美味しさにつつまれながら、終わってしまうことへのかすかな焦りを感じる。

ジャガイモを「地」として使い、香りのかけひきを仕掛けているのだと思う。もちろんテリーヌなので、かたまりひとつ、出来上がったた時すでに味は決まっているのだが、それにしてもこの料理のボディであるジャガイモに浸透した味わいと香りが複雑すぎる。上品と言って良いギリギリな按配のイワシ香と、薫香の絶妙というよりほかないバランスが成り立っていて、白ワインをすすませるかすかな塩気が効いていて、飽きの来ない複雑味、解決のつかなさがいつまでも続く。

さらに強い塩気をもつムースソースと、くどくなるギリギリ直前でとどめてあるイワシ香のポタージュが添えてあるので、これらを適宜補強すれば、皿の残りを徹底的に楽しむべく、料理はますます自らの主張をはっきりとさせはじめる。

イワシ、ジャガイモ、ベーコンだなんて、見事なまでに安価で庶民的な素材だけを使って、これほどまでに不思議な味わいが生みだされるなんて、これこそが洗練というものか。あるいは長年の積み重ねが為せるワザということか。加算の結果ではなく、はじめからそのようであった、いわば何の変哲もない一枚岩の味わいの中から、探って掘れば掘るほど各構成要素の気配が浮かび上がってきて、しかしそれらの組み合わせの骨格とか構造そのものは見えない。謎は謎のままだ。だから何度でも試したくなるのか。