15分

毎朝7時に家を出て駅まで歩く。電車の出発時刻は7時15分で、駅の改札を通り抜けるときにスマホの時計表示がまだ7時14分で秒針の動きが後半に差し掛かる手前あたりなら間に合うが、まもなく15分になろうとしていたら無理なので次の電車に乗る。もう1分早く家を出れば確実に15分発に乗れることはわかっているのだが、その電車が15分発になったのは最近のダイヤ改正からで、それ以前はもう何年ものあいだずっと7時16分発だったのだ。だからこれまで通り7時ちょうどに家を出る習慣のまま今まで来ている。15分発に乗り遅れると次は18分で、その次は20分で、いずれに乗っても目的地へは余裕で着くので慌てる必要もないのだが、習慣を変えないことでかえって毎朝ギリギリ乗れるか乗れないかの瀬戸際を味わうことになってしまっている。それにしても、毎朝同じ道を同じペースで歩いていて、掛かる時間の誤差がほとんど無いのには我ながら驚く。誤差が全く無いわけではないが、いつも前後三十秒らいの範囲にはおさまっているだろう。途中一か所信号のある交差点があり、信号待ちのときと通行できるときがあるが、その影響さえ30秒を越えるものではない印象だ。但しそこで赤信号につかまると15分発への乗車はその時点でほぼ絶望的とも言える。

夜になって帰宅したら、三宅さんの「双生」が届いていた。ありがとうございます!

枝豆とビールとジュリー

妹から大量に枝豆が届く。鍋一杯の枝豆を茹でて、ビールと供する。

鈴木清順カポネ大いに泣く」(1985年)を観る。田中裕子は、八十年代を象徴する…とあらためて感じた。着物姿がとてもきれい。しかし戦前から戦後にかけて、死んでしまうことは不幸だとも幸福だとも言え、戦後まで生き残るということもまた同様で、そういうことをこの映画は言ってないとは思うが、田中裕子も沢田研二もあっさりと死んでしまい、萩原健一のまるで悪ふざけのような切腹シーンで終幕する。

もし、これを今リメイクしたとしたら、たぶん「浪曲」というものの再現は、より上手くいかないことになるだろうなと思った。萩原健一浪花節は、とくにそれが見事だとか聞かせるとかいうわけではないにしても、それでも今の役者が同じことをしたら、やっぱり上手くは決まらないのじゃないかと。三味線を弾く田中裕子も、やはりなんとなくカッコいいのだ。いや、本作はそういう日本的意匠の厳密さなどまるで気にしてない世界であるのは無論だが、それでも、それゆえに、さすがに三十五年前という時間がそう感じさせるのか。それとも萩原健一が芸達者ということなのか。

藤田敏八リボルバー」(1988年)を観る。八十年代の夜の暗さ、バーの雰囲気、パチンコ屋の感じ、女性の服装。始終楽し気な柄本明尾美としのり。拳銃を手に入れる若い男の子は高校生の役だが、とても手足の長いカッコいい子だが、服装がまさに八十年代で、あーそうだった…たしかに、こんな感じでみんな、ウロウロしてたかもなあ…と思った。

虫の絵

文京区白山のwalls tokyoで井上実展。この絵がある意味、小さな虫が広い画面上をでたらめに歩き回って、その足跡がそのまま絵になったようなものだったとして、、そのとき、描いた主体は小さな虫だということになるけど、虫は、そのような絵を描く意図はなかった。自分が歩き回れば、その足跡が画面に残るということをかろうじて認識していた(そういう認識が可能な虫だった)としても、その結果がどうなるのかなど、想像もしていない。

但しそれは、過去に観てきた作品がどれも、比較的大きな画面だから、そのように思えたのではないか、画面サイズが小さくなることで、そんな絵の印象は変わるのではないかと予想したが、そんなことはなかった。このスケール感消失の感じ、人間の意味や目的から隔絶した感じ、身体的=感覚的な非人間性というか、意味のぶつかり合ってる領域から一段階高いところに浮かんでいるような感触は、今回の展示作品でもやはりあいかわらずで、作品のたたえる印象が、画面サイズからは大して影響を受けないのだと思った。

観始めて、やがて面白さのピークが来て、それがじょじょに減衰していって、やがて観終わる、という絵の体験もあるだろうけど、面白い絵というのは、大抵の場合そういった流れは無くて、面白さにピークが無いというか、入ってから出るまでの流れ自体が無い。面白さは、その前段階や後段階の余韻などとは無関係で、脳内に再構成されるというよりも視覚的なアクシデントというか混線のような体験としてあらわれる。その面白さはピークだとしても、そのままループする。それを見るたびごとにピークが反復して訪れ、ちょうどテレビのお笑い映像で、ある瞬間を何度もくりかえし再生するみたいに、何度でもおどろいている。面白さが、時間の流れの中に回収・収束されないのが、面白い絵の面白さの特長だと思う。

Black Hole Sun

「Black Hole Sun」という曲で自分が以前から知っていたのは、イギリスのハウス系ミュージシャンCharles Websterがまとめた3枚組のコンピレーションに収録されていたものでLea Delariaという人が歌っているやつだ。たぶん十年くらいに買ったCDで、けっこうよく聴いてたのだが、この「Black Hole Sun」という曲が、世間的にかなり有名だということは最近まで知らなかった。先日、Brad Mehldauのライブ盤(Brad Mehldau Trio Live 2006年)収録の同曲が偶然に再生されたのを聴いて、え、こんな曲が?と思い、それをきっかけに曲名で検索してみたら、じつはその曲にさまざまな音楽家によるカバーバージョンが存在することを発見した。しかもオリジナルはSoundgardenであると。おどろいたことに「Black Hole Sun」はSoundgardenの楽曲なのだ。曲がバンドのイメージと、あまりにもかけ離れているように思った。そのせいで「Soundgardenまでもがこの曲をカバーしているのか…」と勘違いしたほどだ。とはいえ僕はSoundgardenを全く聴いたことがなくて、やかましい系の音圧の分厚いギターバンドみたいなイメージでしか思ってなくて、自分が大学生のときにリリースされたアルバムのジャケットは見おぼえのあるものだったが、まさかそのときヒットしていたのが「Black Hole Sun」だったとは知らなかった。

 

Lea Delaria 「Black Hole Sun」

https://www.youtube.com/watch?v=2Q2UGae49tY

振れ幅

酢の加減を、ひとまずこれで良いと思えるくらいまで、できるだけ調整してみたい。お汁でも、酢の物でも、このくらいが自分にとっていちばん美味しい、そう思えるベストな按配を知っていたい。しかし、これがベストと思える自分のストライクポイント自体が、その日の気分やコンディションによって、思いのほか揺らぎがちである。そのため自分の口に合う味とか香りをいっこうに決めることができない。お酒もそうで、同じ銘柄を味わっても、そのときによってぜんぜん印象が違って感じたりする。酒を美味いと思うより先に、自分が今そこにいるのかと思う。人によっては、自分が自分に問いかけたとき、毎度毎度、嫌になるくらいに安定した値が返ってくるような、そんな身体感覚の人もいるのだろう。僕の場合はいつまでたってもそうではない、値の揺らぎに気付くたびに、いつもたよりない気持ちにさせられる。針の振れ幅がかたちづくる帯の流れで、これを自分らしきものとみなすしかない。

性と死

大江健三郎の作品に出てくる登場人物たちの性的嗜好のアブノーマルさというか、オーセンティックとはいえない、かなりの振れ幅をもつ事例の多さとはなにか。「蔓延元年のフットボール」冒頭で、全裸で顔を赤く塗り胡瓜を肛門に挿した状態で縊死する主人公友人のイメージは、その後もあの長い物語中消えることなく偏在していたし、1969年の短編「走れ、走り続けよ」で強烈な自意識と自己承認欲求の塊みたいな従兄も、日本髪に長襦袢で女装して下半身をむき出しにした姿で、全裸のハリウッド女優とペアショットの写真を残し、従兄はやがて全裸化粧の姿で窓から転落して半身不随となり、女優は自動車事故によって「サモトラケのニケ」みたいな姿になるし、これだけでなく他作品にも続々とあるだろう。

彼らはとにかく、なぜそこまで…と呆れるくらいに、性と死にまつわる欲望への執着心が濃厚で、ヘンリー・ミラーなど二十世紀外国文学からの影響もあるのだろうけど、どうもそれだけではない日本固有の事情があるのか無いのか、ちょっと不思議な感じを受ける。谷崎や川端が、世間的にはまごうことなき文学の巨匠でありながら、実態としてあれほど性的なテーマを執拗に描き続けたというのも、私小説のテーマに不貞がしばしば取り上げられることとも、無関係ではないのかもしれないけど、あと三島由紀夫的なものの、大江健三郎内部への反響も思いのほか強いのかもしれないが。

たとえば七十年代後半に村上龍がデビューしたときは、作品中の激しい性描写など話題になったのだろうけど、自分の印象としては大江健三郎の方が、よほどエゲツナイ感じがする。というか村上龍的な「性」は今やまるで風化してしまった感じだけど、大江健三郎的「性」はいまだに禍々しい感じがするというか、読んでいて思わず「なんじゃこりゃ」と言いたくなるくらい、その匂いが場をいつまでも占めてる感じだ。とくに今の時代、これほど強く性嗜好と死をその世界に書きつけようとする作家はいないというか、今ではもう不可能じゃないかとも思う。(ポリティカルコレクトネスがどうとかではなくて、今を生きる人の欲望のありようとして、それはもはや無理なのではないか…と)

素人

横浜駅の南と中央の改札を結ぶ通路の一画に、ベンチが置かれたスペースがあり、そこにピアノが設置されていて、通り掛かると大体いつも誰かがピアノを弾いている。弾く人も聴く人もたまたまそこにいただけの人々だろうけど、弾く人はみんなけっこう上手にピアノを弾く。耳を疑うようなものすごい演奏が聴こえてくる、というわけではないにしても、こんな人前で、あえて演奏しようと思うだけのことはあるなと感じさせるくらいには上手だ。とはいえ、そう書いてる自分にピアノ演奏者の技量の巧拙がわかるわけでもないし、エラそうなことを言う資格はなく、自分こそ聴く側の素人に過ぎないのだが、それでもそんな自分が聴く限りにおいて、あの弾き手たちはみんなピアノが上手だ。ちょっと小賢しいまでの上手さである。

そうやって毎晩、帰路の途中に通りすがりながら、ピアノを弾く「上手な素人」の音を耳にしていると、この音とふだん自分がレコードで聴くピアノとどこが違うのかをたしかめたくなってきた。ふだんピアノソロのレコードなど辛気臭いしあまり好んでは聴かないのだが、ちょっとめぼしいものを探して聴いてみた。そしたらやはり、それは「上手な素人」の演奏とははっきりと違った。そんなのは、あたりまえのことかもしれないけど、ただし素人と名ピアニストの違いとは1と100の違いではなくて、技量の巧拙とは別ところで違う。というよりもピアノを使う目的が違うと感じられる。名ピアニストは、とにかく目的があってピアノを弾いているということがわかる。

この文章は自戒を込めて書いているつもりで、なぜなら僕もちょっと気を許すと「上手な素人」を目指したくなるような弱さが、自分のなかにある気がするからだ。「上手な素人」の音を聴いていたくない理由は、鏡に映った見たくない自分がそこにいるんじゃないかという警戒心からかもしれない。「上手な素人」ではなく、ただの素人でいるのは、思いのほかむずかしい。いや、お前はむしろ、もうちょっと「上手な素人」レベルになれよ、という話でもあるかもしれないが…。

名ピアニストは、おそらくピアノで何かを作り出せるという確信を強くもっている。また、そんな自分自身の力を信じていて、自分のことを自分で愛しており、自分が自分から愛されている幸福のうちにある。しかし「上手な素人」はそれらを必要としてないし、余計なことは考えてない。こんな話を、大きなお世話に感じるであろう人たちである。そして、にもかかわらず「名ピアニスト」にあこがれ、そんな演奏をしたいと思う人たちなのだ。