ロイ・ブキャナン

ロイ・ブキャナンの音楽を、今までまったく聴いてこなかったのだが、それは間違いだった。このギターを過去の自分に聴かせたかった。が、もう遅い。いまさら悔やんでも仕方がないので、こんな今の自分だけで聴くしかない。

なぜ、今ロイ・ブキャナンなのか。その理由は、シャッフル再生でシリータ・ライトの「コーズ・ウィヴ・エンデッド・アズ・ラヴァーズ」が再生されて、これはジェフ・ベックの「哀しみの恋人達」ではないかと思って、僕は今まで「哀しみの恋人達」はジェフ・ベックのオリジナル曲だと思っていたのだが、もしかするとシリータの曲(つまりスティーヴィー・ワンダーの曲)なのでは?と、ウェブで調べ始めたら果たしてその通りだったのだが、そのジェフ・ベックが「ブロウ・バイ・ブロウ」アルバムジャケットに"ロイ・ブキャナンに捧げる"と記していると知って、ロイ・ブキャナンって誰だっけ?…と、その名前に行きついたからである。

1985年のアルバム「WHEN A GUITAR PLAYS THE BLUES」二曲目の"Chicago Smoke Shop"が、ジェフ・ベックの"Led Boots"そのものであることに驚いた。曲が似ているのではなく、アプローチというか、目指すものというか、考え方が似ている。偉大な演奏とそのエピゴーネンの演奏みたいな関係では全くなくて、どちらが後でどちらが先とか、どちらが師匠とか弟子とか、そういうのともいっさい無関係に、時代の差をまたいで、たぶん両者が頭に思い浮かべているイメージが、だいたい同じ方向を示しているのだろうと思われる。こういう相似には、何か心を躍らせるものがある。

ほとんど、旋律らしい旋律を弾いてない、ようにも感じられる。その音の塊を、フレーズと呼ぶならそう呼んでもかまわないだろうが、それにしては演奏方法を手順化するのが難しい。再現性が低いというか、楽譜を見て再現できるような形をしていない。

このような演奏をもっとも得意とするギタリストの一人がジェフ・ベックだと思っているが、いわばギターをサックスのように"ブロー"させるというのか。フレーズの再現手順を一時的に放棄するような瞬間、音楽における、そのような時間の持続をギターで成り立たせてしまう。

管楽器のブローは、それが声や叫びのイメージに重なることである種の感情をあらわすことが出来るが、それは楽器の構造が、人間の呼吸の仕組みに(人間の呼吸器→口腔の延長として)追従するしかないからである。

それにくらべて、弦楽器はそのような人間への追従はなく、人間とは無関係に音の出る構造をもつが、逆に人間を彷彿させるブロー的表現には向かない。

そのような楽器-ギター-をもちいて、あえてブロー的な表現を試みたのが、一部のブルース系ミュージシャンで、その系譜にジミ・ヘンドリックスジェフ・ベック、そしてロイ・ブキャナンを並べてみることは可能だろうか。

ギターがブローすることは可能か?ギターのサステインをブローのような表現に変えるには、どうすれば良いのか、もちろんアンプリファイズとフィードバックが、多大な効果をもたらした、あるいは後期バーズに在籍したクラレンス・ホワイトのような、ストリングベンダーを駆使したカントリーギターのスタイルも、それが大音響と結びつくことで固有の表現、長く伸びる一音=ブローの幅を広げたとも言えるだろうか。

ギターを叫ばせるということ、それを大音響の下で試したとき、それはブローというよりもスクリームと呼んだ方がふさわしいようなサウンドになった。それは人間の呼気によって押し出された音の印象とは真逆な結果をもたらすものだ。元々何も無かったところにいきなり最高域からの大音響が出現して、それが一挙に減衰してまた元に戻るまでを、手の掛かるやり方で何度も再現させているかのようだ。

そのようなギター特性を知り尽くし、もっとも巧みにギターを操ったギタリストの一人がジェフ・ベックであると、僕は前から思っていたのだが、そんな自分にとってロイ・ブキャナンの発見とは、あのジェフ・ベックにも、心の中の手本というか、支えというか、表現する上での杖のような音楽があったとしたら、それはこのギタリストではなかったのだろうか、という発見でもあった。

場所

ほとんど使われてないのに、たぶん誰かがお金払ってるから、使おうと思えば、いつでも使える、でも特に必要もないし理由もないから、誰も使わないし誰も来ない。ふだんその場所があることなんかみんな忘れている。思い出したとしてもすぐ忘れる。そんな場所を訪れると、長いこと人気なく身じろぎもしなかった空気が、ゆっくりと沈殿していて、もう何か月もの間、埃とか小さな羽虫とか、あと微生物とかだけが生き物の気配をかすかに漂わせていただけの、静寂に満ちた、がらーんとした空間が広がってるだけで、じっさい、無駄といえば無駄だけど、でもなぜか、ここにいると快適に感じる。快適というよりも、親しみのような。こういう場所はいいな、落ち着くなあと思う。一応、名目上は他人によって管理された空間で、責任者も用途もたぶん定義されているのだけど、そのまままるで機械が着実に作動した結果のように、長い年月が経ってしまった場所の独特の感じ。自然でも廃墟でもなくて、生まれてから死ぬまで、ずっとこういう場所で生きているようなものだな…とも思う。

戦争

ナショナル ジオグラフィックの「9.11:アメリカを襲ったあの日の出来事」全六話中の一話と二話を見た。二十年前のことではあるが、今でも昨日のことのように衝撃的で、暗澹たる気分から、しばらくのあいだ立ち直れなくなる。

こういうのを見ると、政局とか情勢とかを知って判断して、正しく適切に行動する、などという言葉が、まやかしとしか思えなくなる。戦略だの戦術だのが、戦争ではない。今ここで、自分という個体がすべての判断根拠をうばわれること、認識という力を人間から根こそぎ奪って、生き物が本来もつ不安と恐怖を呼び起こして直に晒す、これが人間によってもたらされたということ、これこそが戦争と呼ばれる事態だと思う。

戦争は「この私は、こうする」といった主体性そのものを人間から奪う。上に向かうべきか、下に向かうべきか、救出に行くべきか、退避撤退すべきか、今この場所にいて良いのか悪いのか、この直後に何が起きるのか、どこなら安全なのか、どうすれば自分と家族を守れるのか、たった今、この私が、これで正しいのか間違っているのか、それらすべてに対して、拠り所を失って、不安と恐怖に駆られて右往左往するしかない、生き物の本性を、戦争は露呈させる。

「戦争反対」というのは常に、この苦痛を、この悲しみを、この不安を、この恐怖を、この怒りを…という場所から立ち上げなければ、意味がないだろうと思う。それ以外の小理屈がくっついたやつは「戦争反対」ではなくて、むしろ「戦争」に近い。そのような理屈をもてあそぶことで戦争に加担することなく、いつまでもその恐怖と不安と悲しみと怒りを、たった今の出来事であるかのように再生させ続ける必要がある。そのためには、いつまでも執拗に、過去を参照し続ける必要がある。

道成寺

銀座の観世能楽堂で第二十八回能尚会。番組は仕舞「老松」「春栄」、能「木曽 願書」、狂言「墨塗」、仕舞「難波」「草子洗小町」「江口」「鵜之段」「山姥」「屋島」「芭蕉」、能「道成寺」。(野村萬斎をはじめてみた。父親の万作は何度か観たことあったが。)

能「道成寺」にはおどろいた。前半の乱拍子と呼ばれる二十分にもおよぶパートの、言葉では説明しがたい異様さに、心をうばわれたようになった。能は近年、それなりに回数を観てきたが、このようなものを観るのははじめてだと思った。全体で一時間四十分にもおよんだと思われる上演時間を、最後まで長いものに感じさせなかった。

はじまりからしばらくして、シテが入場してくるのだが、これが例によって驚くべき低速度で、ここまではいつものことなのだが、やがて鋭い声と沈黙、シテが爪先を少し持ち上げ、小鼓の一打が起きて、爪先を下げる。…それを果てしなくくりかえす。シテは舞台上をおそろしく緩慢な速度で移動していくのだが、観ていると、それはもはや移動には見えない。ある奇妙な手続きにしたがった特異な儀式を、館内ぜんたいが、固唾を飲んで観続けているような状況になる。前の席の婆さんが、背もたれから身を起こしてやや前かがみになって、前の席の背もたれを血管の浮き出た痩せた手に力を込めてしっかり握りしめている。その手の指先に加わってる力の意味が、よくわかる気がする。そんな気持ちで観続けるしかないような、何か得体の知れない緊張感にみちた時間なのだ。

このような振り付けが、本当に古来から続いているものなのかどうか、訝しく感じられるほどで、無機的で執拗な反復、間合いの取り方、小鼓による掛け声。低域から中域へと変容する人の肉声の変化が、まるでシンセのツマミをぐーっと回すかのごとく館内に満ちては消えていき、その後ほとんど短い絶叫のような一喝の余韻が響き、どん!と足が踏み鳴らされ、ふたたび静寂、小鼓一打、ふたたび静寂、篳篥の高温が、耳のすぐ傍に響き、同様の手順がひたすらくりかえされ、それらすべてが、なぜかきわめて現代的というか、現代のテンポ感、質感をしっかりとたたえた、極度に突き詰めたミニマリズムの感触に、かぎりなく近いといった印象をもった。(終演後、妻に冗談半分で「まるでダムタイプみたいな…」と言ったら、相手はとくに笑いもせず「そう言われてもあまり違和感ない」と答えた。「現代っていうか、未来的な感じ…、まるでSFみたいな」と。)

観能は、それをいま自分が見ると同時に、何百年も前の人間もまた、それを観ていたという想像を並行させて観ている。その何百年も前にいくつかのバリエーションをもたせている。江戸時代の人が観たそれと、昭和の時代の人が観たそれを想像して、それらの鑑賞者と自分との距離を推し量っている。彼らが観たものが何だったかを、目の前に観ているものから想像している。それは彼らにとって観能がどんなものだったのか、彼らの生活のなかに、観能がどのような位置を占めていたのか、ということになる。

能と能でないものの区分が、ある「取り決め」が作用している時間と場所にあるはずで、その取り決めの境界線に立ち会うのが、観能ということになる。かつての彼らが、その境界線に立ち会ったときに、どのような心の動きを感受していたのか、そこのところを想像している。

夕食と共に

夜、わりと遅くに帰宅。最寄り駅前の閉店間際のスーパーで買ってきた食材で、ざざっと簡単に夕食の支度をして食卓に並べて、適当にテレビをつけてチャンネルを変えてみるけど、どれもつまらないので、録画しておいた映画やDVDをざーっと見返して、何かめぼしいものがないかを探す。食事をしてる視界の片隅に映ってるような、そんな観方の出来るものがのぞましいので、未見のものはダメ。と思ったけど、これ観てないけど、まあいいかと思って、ためしに一つ、再生してみたら、はじまってすぐ、ダメだこれは、結局きちんと観たくなってしまうやつだ、メシ食いながら観るのはとても無理…となって、停止して別の作品を探す。それでも、あれじゃないこれじゃないと時間ばかりかけて探してたらいつまでたっても食事ができない、意外とありがちなパターンなのでそれには警戒しつつ、こういうときは、とにかく深く考えずに、ものすごく適当に、ほとんど何でもかまわない、良いも悪いもなし、そんな緩さ全開の選別眼で、なるべく狭くかぎられた一画だけを対象にして候補を探す。ほどなくして探り当てた一枚を再生する。何度か観たやつだけど久しぶりだ。オープニング、冒頭の場面、次の場面と観ていく。こんなにガサガサと騒がしい雰囲気だったかなあと思う。懐かしいような新鮮なような、しかしさほど面白くはなくて、ああ良い選択をした、いい按配で今の興味関心からズレてて、適度に無視が可能な、これぞ最適なやつだと思った。食事を終えて片付けるまでの三十分かそのくらいまで再生していた。

木野

村上春樹「女のいない男たち」収録の「木野」を読んだ。これまで読んだ三篇のなかでは、もっとも混沌としていて、行く先を求めて手探りで彷徨うような作品。

夫以外の男とも関係をもっている妻が出てくるのは、この作品である。そして、妻の不貞に対して、糾弾もできず、許容もできず、怒りも悲しみもまるで他人事のようで、ただ呆然としているのは、本作の夫である。

これで、映画「ドライブ・マイ・カー」脚本の元になった三篇をすべて読んだ。それで、あらためて映画「ドライブ・マイ・カー」の脚本について思うこととしては、かえって、よくぞここまで無条件に混ぜ合わせたものだなあという、それはそれで驚きというか、そこまで徹底して脚本にするのは、なかなかすごいことなのではないかと思うところも、ないではなかった。というか、自分が無知なだけで、映画の脚本作りというのは、多かれ少なかれ、そういうものなのだろうか。

結局のところ、そんな目に遭うようにできていたのだ。もともと何の達成もなく、何の生産もない人生だ。誰かを幸福にすることもできず、むろん自分を幸福にすることもできない。だいたい幸福というものがどういうものなのか、木野にはうまく見定められなくなっていた。痛みとか怒りとか、失望とか諦観とか、そういう感覚も今一つ明瞭に知覚できない。かろうじて彼にできるのは、そのように奥行きと重みを失った自分の心が、どこかにふらふらと移ろっていかないように、しっかりと繋ぎとめてく場所をこしらえておくくらいだった。「木野」という路地の奥の小さな酒場が、その具体的な場所になった。そしてそれは---あくまで結果的にはということだが---奇妙に居心地の良い空間となった。

そのままでいると、どこかへ流れ去ってしまうから、それをつなぎとめておけるだけの何かがほしい、それが居心地の良い店であったり、誰かとのセックスであったりする。

居心地の良いお店を知ってるのは、まあ良いとしても、セックスというのは、相手あっての行為ではあるだろう。ふたりがする行為において、自分が思ってることと、相手が思ってることは、往々にして違うものだ。だから、そのズレや違いがモチーフになって、小説が生まれてくる。

そういうことなのだなあ…と思うと、今更だけど、また、なんとなく面白くなくなってくる。これはひたすら、これのくり返しなのでは?という気がしてくる。

そのときの起こったことは、もう忘れかけている。いろんな出来事が、順番通り思い出せない。ばらばらになってしまった索引カードのように。

小説の最後で、主人公は、自分の今の状態をまざまざと見る。それが、この作品のラストになっている。

そう、俺は傷ついている、それもとても深く。木野は自らに向かってそう言った。そして涙を流した。その暗く静かな部屋の中で。

「俺は傷ついている」を言うために、これがこのようにして書かれた、それは、わかる気はする。そう言いたかった、そのように言うのも楽じゃない、それはそれなりの手続きと時間が必要なのだと、これはそういう小説だとは思う。良い悪いではなく、こういうものが、このようにして、小説のかたちをしていることには、ある種の納得は感じた。はい、ありがとうございました…という感じだ。

シェエラザード

村上春樹「女のいない男たち」収録の「シェエラザード」を読んだ。好きな男の住む家に忍び込んで小さな物を盗み、かわりに自分の些細な所有物を潜ませてくる、そんな行為をくりかえしたことのある女子高校生が、三十歳も半ばになって、たまたま知り合い関係をもつ男に、その過去を告白する話。

まるで、チェーホフのようだ。彼女の過去と、それを今語る彼女(過去の彼女の欲望と、今の彼女の欲望)、それを受け止める男、女の欲望と女への欲望を交換すること、それが出来なくなること、今はこうして逢瀬を重ねてはいるが、きっといつかはこの関係も終わり、さっきまで聴いていた相手の話の続きを、聴くことができなくなる日を想像する男。それらすべての寂しさ。

この短編集は、どれも短編であることの、それならではの良さを感じる。映画での流れが、ここで小気味良く切断され、丁寧で繊細に編まれた、こじんまりとした小品として組み直されたようで、その一つ一つの収まりのほどよさが、小説の良さとして作用してる。