レコード音楽

レコードを床に落として、足で踏んで割る、あるいはまるで板チョコのように、ばりばりと噛んで食べてしまうなど、初期クリスチャン・マークレーの作品に共通する特徴は、ヴァイナルへのフェティシズムをともなった暴力衝動であり執拗な攻撃であると言えるだろう。細かい溝の刻まれたヴァイナル、そこに音が潜んでいること、しかし音そのものへは決して触れられない、そのことへの苛立ちと逡巡。それが媒介物にすぎないはずのレコードに、物質として触れ、まさぐり、破壊したい衝動へと転嫁し、そのときの破壊音をもうひとつの再生音として聴こうとする倒錯へと向かうかのような。

ヘナチョコのターンテーブルを幾つも並べて、不確かなピッチのままに再生する。ヨタヨタ、ユラユラと音盤は回り、カートリッジが盤上を横滑りして針が溝を引っ掻き、醜いノイズが連続し、音楽は同じ溝幅ばかりを強引に行き来させられることでずたずたに細分化され、フレーズとも言えない同じ信号をいつまでもくりかえすばかりだ。

すぐれた音楽が常に含んでいるのは、際限のない幼児性と、人間の思惑から無頓着に進行する自律性のようなものだと思っている。それが、人間とは本来無関係に、少なくとも複製技術時代以降の音楽それ自体がもたざるをえない何かを、ゆさぶり呼び起こすのではないか。それを聴く人は、何かを覚醒させられ、これまで気付けなかったことに気付かされ、もうそれに気付いてしまった以上けっしてそれ以前には戻れないというような、ある種の悲壮な気持ちをもたらすようなものとして、その音を受け止める。そしてそれをまともに受け止めた人は、その体験の中から自分のやるべきことを半ば強制的に推し進めるしかなくなる。

セシル・テイラー山下洋輔という関係があるとして、それと同じようにクリスチャン・マークレーと大友良英という関係を考えられるだろうか。どちらのプレイヤーも、まず強い衝撃としてそれを受け止め、それに絡めとられた。しかし同時にそれによって自由を得て、突き進むことが出来た。

そして、山下洋輔あるいは大友良英の音楽は、セシル・テイラーやクリスチャン・マークレーの音楽とは無関係に素晴らしい。

…どうも自分が言ってることは全体的に、あまりにも古過ぎるのだろうか?という懸念を、自覚しないではないのだが、しかし自分にとって前述の人々の音楽は、いまだにアクチュアルであるのだから、それは仕方がないのである。

クリスチャン・マークレー展

東京都現代美術館へ『クリスチャン・マークレー トランスレーティング[翻訳する]』を観に行く。

クリスチャン・マークレーは、まずミュージシャン(ターンテーブル奏者)としてシーンに登場し、これまで誰もやらなかった表現形式での「演奏」を行い、その衝撃は大友良英らにも影響を与えた。改造ギターとターンテーブルを使った大友良英のパフォーマンスを90年代初頭の自分が知ったときは、やはり強い刺激を受けた。

そのような「創始者」としてのクリスチャン・マークレーの偉大さはたぶん揺るぎ無いものだろうし、ターンテーブルとアナログレコードという素材を用いてこの作家が追いかけた問題は、たぶん今でも充分にアクチュアルなものだと個人的には思う。

とはいえ、この作家のキャリアは多岐にわたるし作品も多様である。今回の展示はおそらく本人の意向もしっかりとくんで、過去から今までの仕事をこのように見せたいとの意志にもとづいて選別、構成、セッティングされているのだろうとは思う。

そのことも踏まえた上での率直な感想として、この展覧会での美術家クリスチャン・マークレーの作品群に、自分はぜんぜん惹かれないな…と思った。なんか三十年前の美術手帳を見ているようだと思った。ほとんどじっくり見るべきものがないように思いつつ歩いていたら二十分くらいで出口に着いてしまい、このあとイベント開始までの時間を大幅に持て余してしまうことになった…。

∈Y∋(山塚アイ)によるボイス・パフォーマンスと、ジム・オルーク、山本達久、マーティ・ホロベック、石橋英子、松丸契による即興演奏のイベントがあるのを、先々週くらいにたまたま知って、予約したらうまいこと予約できてしまったので、この贅沢なメンバーによるイベントを幸いにも体験することができた。ひさびさに生でのライブを聴くことが出来て嬉しい。山塚アイは絶叫の裏声がキレイというか抑揚と差異付け、各声音それぞれの粒立ち感、まるで運動選手のようなしなやかさ。しかし前半でも後半の即興でも、最近の電子機材によるエフェクトの効果は、生音ときれいに混ざり合っていい感じの音になるものだなあと思う。繊細かつ精緻な山本達久のドラムも印象的だった。

妻が最近あたらしく買った料理本。坂田阿希子「和えるおかず」と、寿木けい「土を編む日々」の二冊のおかげで、我が家の食卓には革命的な変革がもたらされた…とまで言うと大げさかもしれないが、短期間のうちに食卓に登場する新メニューの種類がいきなり増えたのは確かで、やはりこの事態はそれなりに大きな変革と言って過言ではない。

素材の組み合わせの妙が意外ながら絶妙な味わいの引き出し方を教えてくれるという感じの「和えるおかず」。シンプルに素材そのものの味わいを引き出そうという意志が一貫してる感じの「土を編む日々」。志向や方向性は異なるものの、ことに野菜が美味いと感じさせてくれるにはうってつけなレシピが、どちらの本にも豊富に揃ってるのがいい。

「土を編む日々」の方は料理本というよりもエッセイというか、書き手の思うところの暮らしとか家族とか生き方の領域にまで踏み込んで硬質かつ端正な文体で描かれていて比喩なんかも一々気が利いてて、料理本だと思って読むと最初やや面喰らうほどだ。

それはそうと、我々もたまには外食するかということになる。久々にきちんとした料理を経験することで「こんなのいったい、どうやれば出来るの!?」とか、そういうおどろき方がしたくて、新鮮な刺激を期待する思いに応えてくれそうな店を選んで予約を打診してみた。二軒続けて満席で断られて、あいかわらず引きが弱かった。しかしそのあとようやく地元近くの一軒に無事予約が取れてどうにか予定が決まった。

切る

久々の店に寄ったら、釣果のアジを大量にいただいてしまったので、帰宅後早速包丁をふりまわして処置する。小ぶりだが新鮮な個体がたくさん、スピード重視でばばばっとやる。二尾は刺身、三尾は塩焼きでこれらはすぐに食す。残りは開いて、明日フライにするべく冷蔵待機させる。

食べ終わって一息つき、味噌汁を一杯つくろうと思いたち、湯を沸かすあいだに葱を刻んだ。そうしたら、久々にやってしまった。とーん、と刃先が指にあたってしまって、あーあ…と思って、数秒後に、とめどもなく出血。これで数日間、不自由な思いをすること確定だ。というか、今これを止めなければ、止血までかなり時間かかりそうなので、輪ゴムでぎゅっと縛って、ティッシュと絆創膏で無理やり処置する。衣類も周囲にも盛大に血痕が残ってしまい、こういうのは他人の有様を自分が目撃したら、ほとんど貧血おこすくらいに、自分は血を見るのが嫌いで、こういう「イメージ」が身の毛のよだつほど苦手なのだけど、今回のように自分が当事者であれば、かえって落ち着いていられるというか、淡々と処置できてしまえるのだなと思う。それにしても、年に一度くらいは、切るなあ、、と思う。なんか気が緩んでいて、油断してると、そうなる。まあ酔ってるからというのも、当然ある。

Cry Baby

ナタリーポートマンが出てる化粧品ブランドのTVCMに、ジャニス・ジョプリンの"Cry Baby"のサビ部分が使われていて、それが偶然耳に飛び込んできたときの、ああー純度百パーセントの、ジャニス・ジョプリン…という感じ。

これこそが、カットアップのもたらす効果の、最大級のものではないかと思う。ふつうに"Cry Baby"を聴くのよりも、何十倍も濃縮された"Cry Baby"を聴いてしまった感じがする。

身も蓋もなく、何の前置きも言い訳もなく、絶望的なまでに唐突で動かしがたいジャニス・ジョプリンジャニス・ジョプリン性が、目の前に直接、物質的触感のごとく具体的なものとして提示されてしまっている。

ことばもなく、ただ呆然として受け止めるしかない。その中で、そうなのか"Cry Baby"って、じつはこうだったのか…という、今更であるのは充分承知なうえでの、あらたな発見がある。

演劇、映画

近所に、ある劇団の練習場兼劇場があって、ほんのすぐそこ、という感じの場所なので、散歩のついでに入場券払って観劇することだってたぶん簡単に出来るのだけど、しかしその勇気は出ない。まったく知らない劇団の舞台をいきなり観に行くことへの抵抗感というよりも、たぶん想像してしまう演劇というもの本来の「生々しさ」、いやな言い方すれば「白々しさ」をおそれている。おそらく何の隔たりも境界もないフロアの片側に客がいて、もう片側に「舞台」があって、そして「演劇」が発生して、そこで成立するはずの「約束」の、たよりない脆弱さを想像すると、それがおそろしくて、そこにあえて飛び込む勇気が出ないということだと思う。

目のまえで、人が演技しているのを、黙って観るということの「不自然さ」とは、しかしおそらくたちまち中和されて消え失せてしまうようなものだろう。どんな芝居だろうが、どんな入りにくいお店だろうが、入ってしまえば、かならずそれに慣れる。慣れるとはつまり、その領域内を支える決まり、規則、制度、約束を理解し、内面化できるということだ(だからこそ、決してそうさせない、そのような制度化を拒み続ける芝居の形式もあるだろう)。むしろそこに「白々しさ」「不自然さ」の要素がいっさい無かったとしたら、それは活気やよろこびのない「死んだ反復」だろう。

得体の知れない劇団の芝居を観る客になるのは、こわいものだが、劇団にとって得体の知れない客もまたこわいものだろうか。

レストランにとって、得体の知れない客は、いやなものだろう。得体の知れない客とは、何の目的でここに来たのかわからない客、ということだ。服装が合わないとか、マナーがどうとか、店にふさわしいとかふさわしくないとか、そういう話とは別の位相に、得体の知れない客はいる。どう扱って良いのかわからない客。

でも得体の知れてる客ばかりであること、あるいは服装にせよ作法にせよ完全に慣れているので、まったく「白々しさ」「不自然さ」の要素がない客を相手にするのは、それはそれで退屈でもあるだろう。

劇団にとって得体の知れない客、というものが考えらえるのだろうか。レストランの例え同様、作法やルールを内面化してるとかしてないの問題ではなくて、いきなりあらわれた、しかし何か出自の違う、脈絡のない、何を目的で、なぜここに来て、何を観に来たのかがわからない客。

「彼自身によるロラン・バルト

演劇における身体は、偶発的であると同時に本質的である。本質的だというのは、あなたはそれを所有することができないからである(それはノスタルジックな欲望のもつ幻惑的な威力によって賛美されるものだ)。偶発的だというのは、その気になりさえすれば(それはあなたにとって、できない相談ではない)、舞台に駆けのぼり、あなたの欲望の対象にさわることもできるのだ。

それに引き換え、映画はどうか。

映画は、それに反して、自然のなりゆき上、行為への移行をいっさい除外している。そこでの映像とは、表現されている身体の《取り返しのつかぬ》不在である。
 (映画は、夏、シャツを広く開いて歩いて行くあの身体たちのようなものだと言えそうである。《見てください、でもさわってはいけませんよ》と、その身体たちも映画も、言っている。どちらも、文字通り、《つくりもの》である。)

 

モロイ

登場人物としての「モロイ」から、良い印象を受けることはない。ただし、憎しみを掻き立てられるようなこともない。ある邪悪さというか、現実として、存在としての悪の手触りというか、そのへんの小動物や昆虫が属性としてかかえているのかもしれない罪、のようなものの予感、手触りめいたものはある気がするが、それもかすかなものとしてだ。「モロイ」は、登場人物の独白のような文体がえんえんと続くのだが、それでも意外なことに、それが作家(ベケット)によって書かれている、ということが読み手に見えるような箇所がいくつかある。ほとんど一本調子に、改行なしで、ひたすら脈絡のない言葉が書きつらねられているのに、ところどころ、綻びのような破れ目が散見されるような(ある意味「楽屋オチ」的な)、一見、登場人物の独白がやや淀み、逡巡するような場面なのだが、それが同時に書き手(ベケット)の書こうとする気持ちの淀みであり、そのことへの苛立ちや空虚さでもあるかのような具合だ。しかし、だからといって作品すべてを作家(ベケット)の言葉と捉えて読むことができるわけでもない。「モロイ」は「モロイ」という人物、その人としてしか読めない。そして二章に出てくる、「モロイ」を探すはずのジャック・モランも、やはり「モロイ」その人に強く重なる。というか、ジャック・モランはこうではなかったはずのもうひとつの「モロイ」という感じがある。「モロイ」という名は人物という単位に与えられたものではなくて、いくつかの人物にまたがった、一連の性格とか嗜好とかにもとづく考えのまとまり、動き、流れ、に付けられた名称であるとも言えるかも。