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「はだかのゆめ」監督の甫木元空がボーカルとギターをつとめるバンド「Bialystocks」。なかなかいい感じだ。

Bialystocks - 灯台【Music Video】
https://www.youtube.com/watch?v=6lktU0Ij3-E

Bialystocks - Upon You【Music Video】
https://www.youtube.com/watch?v=-6rXvPHOjVU

そもそも下北沢の映画館で「はだかのゆめ」28日上映後のイベント、甫木元による上映後舞台挨拶+ソロライブを目的にチケットを購入したはずが、なぜか日付を間違えてその翌日のヴィヴィアン佐藤さんとのトークショーがセットされた29日を購入してしまったのだ。しかし、それはそれで面白かったので良かった。

どうでもいいけどいまだに「Bialystocks」という名前がおぼえられず、それを言おうとするとなぜか「BIRKENSTOCK」になってしまう。「BIRKENSTOCK」なんて所持してないし関心もないのに、なぜそのブランド名を記憶しているのかわからなくてそっちの方が不思議だ。

関係ないけどグレッチェン・パーラトの新曲は1985年頃、Klymaxxの曲「I Miss You」で、しかしこの人はほんとうに80年代ヒット曲をカバーするのが好きなのだな‥と思うが、それにしてもこんな曲をとつぜん思い出させられるのは、ふだん微塵も動かず深海の底みたいな記憶の深層がとつぜん揺れ動かされる感じがして、なぜかぼやっと不安を呼び起こされるところがある。

I Miss You - Gretchen Parlato/Lionel Loueke
https://www.youtube.com/watch?v=2yJZXMf3Z2o

ホセ・ジェイムス新作はエリカ・バドゥのカバー集で、セカンドアルバム「Mama's Gun」からの曲につい耳を惹きつけられるし、どの曲もあまり変にいじくらずに素直にふつうにカバーしているのもいい感じだ。

José James feat. Ebban Dorsey - "Didn't Cha Know"
https://www.youtube.com/watch?v=0nxREH6QLBI

José James - Bag Lady (feat. Diana Dzhabbar) (Official Audio)
https://www.youtube.com/watch?v=O2WqJj5AdIA

これを聴いてるとやはりエリカ・バドゥの「Mama's Gun」はやはりまぎれもない傑作だった、とは思う。思うのだがそれを今更平坦な場所に並べて比較して良いとか悪いとか言えるものだろうか。それが可能だと自分は思っているのだろうか。聴いたのは2000年のことだ。2000年だなんてなあ…。あの当時こそが、まるで未来のようだったとも思う。

はだかのゆめ

シモキタ-エキマエ-シネマK2で甫木元空「はだかのゆめ」(2022年)を観る。

幽霊的な存在と幽霊ではない存在との見分け難さ。また各登場人物の何かへの執着あるいは未執着の濃淡。その力の加わり具合が、人間と景色の堺なく混ざり合っているような、ただそこに任意で広がってる風景だけを見ていたような感じだ。とはいえ唯野未歩子と青木柚の始終浮かぬ表情からは、ある種の息苦しさ、葬儀のときジッと黙って座ってるときの堅苦しさに似たものを感じもした。

上映後にヴィヴィアン佐藤(美術家、ドラァグクイーン)/甫木元空(監督)のトークイベントがあって、ここで語られていた以下の話はまさにその通りだと思った。曰く、死者(親)の残した遺品とか形見というものは、それを預かった遺族(子供)は、我ながら不思議なくらい、その「物」に対して価値とか意味を見出さないものだと。少なくともその「物」には、死者の何かが宿ってないことを実感する。死者の何かが宿る場所があるとしたら、それは子供である自分の存在自体がそれだと思う、と。自分が今も生きていることが、死者と自分との交点であって、死者を思うとしたら自分自身という存在を通してでしかないと。

だから遺品とか形見は、べつに無くてもかまわない。甫木監督の母親が亡くなった際には、祖父はその遺品を平然とどんどん捨ててしまうので驚いたし、自分はそれら遺品を一応残すようにはしたけど、それは「周囲や世間や常識への配慮」としてそうしただけだと。

所々で、一昨日観た「雪の断章 -情熱-」を思い起こさせるものがあった。それは自分がそのようなモードに入っていたからで、二つの作品に似たところはないけど、まったく似てないわけでもないとも思う。そして「雪の断章 -情熱-」の濃さというか映画としての執拗さを、あらためて凄いと思う。

郡司ペギオ幸夫×保坂和志

27日に開催された、郡司ペギオ幸夫×保坂和志イベント&オンラインの配信映像を見る。大変面白かった。

作品の体験者(作者も鑑賞者も)は、自分固有の条件をもって作品にアクセスする。そしてその穴に自分の固有性を注ぎ込んで、その全体を、何かがわかった、何かを掴んだような感覚を得る。これが、作品を体験したということである。私(主観)だけが体験したのではないが、客観的に割り切れる作用としての体験でもなくて、あくまでも個別性の体験であること。

「ハレルヤ」の分析と解釈の、目が覚めるような明晰さに感動する。私個人・個体的なものと、全体・世界・唯物的なものとが混ざり合った状態であること。

ちょっと、より詳細にまとめたり文章にしたり出来ないので、もう一度トーク内容を聴き直す必要があるのでまた後ほど。ただこのくらい理解足りてない、中途半端以下な理解程度が、変な話だけど「すごく面白かった気がする!」という興奮やワクワクした思いをいちばん胸に保持しやすい状態でもある。

雪の断章 -情熱-

録画の相米慎二「雪の断章 -情熱-」(1985年)を観た。オープニングでの、雪の積もった屋根を伝って歩くシーンから、お金持ちのお家を去って榎木孝明の家に来て、翌朝になって家政婦と対面して、家を飛び出してそれを榎木孝明が手前から追いかけて、世良公則が彼女を抱いて奥から、川の中を彼女を抱きかかえて登場…という、時間も夜から朝まで経過していて、場所も大いに変わっているはずの一連の流れが、全部ワンカットで撮られている。溝口健二的な、横移動による説話進行という形式を、そのまま過激に推し進めた結果の、ほとんど映画なのか限定空間内での演劇なのか判然としないかのような、どのフレームとどのコードを適用して目の前のものを見て解釈すれば良いのか戸惑うような、このようなやり方であるからかえって時間も空間もひしゃげてしまっているかのような、異様な感触。

それが「十年後」になって、バイクの後部座席でやけに楽しそうな(高速で流れる路面に直接仰向けになっているかのような)斉藤由貴が登場して、このバイクの場面もどうやって撮影したのか不思議なのだが、そういう場面は多々あるのだが、そういう形式上のことばかりを観ているわけにはいかないほど、観ている自分はこの作品にぐいぐいと引き込まれていく。

マンションに引っ越しする人がベランダから荷物を運び入れている、それをベランダから斉藤由貴ら三人が見ていて、後から家政婦がお茶を持ってくる(素晴らしいシーン。ここにあらわれている二人の男と主人公の女と、家政婦という非・家族な関係が、とても面白くなりそうな予感を感じさせるのだが、話としてはそうではない。)。

お金持ちのお嬢さんとの久々の再会、斉藤由貴らが自宅に招かれてのお嬢さんのダンス披露会、そしてお嬢さんの謎の死の後、レオナルド熊演じる刑事は、服装といい振る舞いといいセリフといい、刑事らしさのような雰囲気をいっさい与えられてない。フェンスに腰かけて斉藤由貴を待っている場面は、意味不明な不審者ですらない、こんな人物実在しないでしょ…と言いたいような感じだ。(ただしレオナルド熊だけが三人のつくる三角形の中に入ってくることのできる、ちょっと特別な人物の感じもする。)

世良公則斉藤由貴の函館、二人が一緒になるきっかけになるまでの一連の場面。クリスマスパーティーから、おでん屋なんかが軒を連ねる飲み屋街から、海の見える濡れた路面の道端から、さらに路地の奥へ続く飲み屋街へと、これもずーっとワンカットで、なんてことだ…と思わされる。

斉藤由貴テトラポッドを渡り歩いて世良公則に手を差し伸べるまでの場面も、大概とんでもないけど、とんでもないシーンはこれだけではなく多数ある。なにしろみんな真冬の北海道で、斉藤由貴は水に漬かりすぎで、雨でずぶ濡れだわ川を渡ろうとして舟に助けられるわで、ここ北海道でしょう、いつかほんとうに死ぬでしょ、と思う。というか死ぬことが本作の大きなモチーフで、中盤以降の斉藤由貴は、どうにかして死に近づこうと試みているとしか思えないし、世良公則斉藤由貴に魅了されているのは、それはそうなのだろうけど、同時に彼は、死に魅了されてもいるとしか思えない。

しかし相米慎二的な世界に出てくる異形の者たち・・・ピエロとか人形とかは、それだけで「あちらの世界」がいきなり開かれてしまいそうになる契機であると同時に、あの年代の人間に特有の強烈な内面の作用が見せる彼女らだけの幻想のようでもある。主観でも客観でもない場面の見事な実例だ。

そして結末は、ああー、これで終わりなのかー…という感じ。ある種の物足りなさをおぼえてしまうのは、仕方のないことか。

死んでお棺に横たわってる人の顔を見ると、生前のその人とは人相が変わってる、というか死んだことで、もともとの人相があらわれたと考えたほうが良いか。

その人物が生前に醸し出していた固有の複雑なイメージが失われて、原形質がそのままあらわれているということか。

しかも大抵の場合、その顔は故人の御身内や親族の誰かに似ていて、それが生前なら似ているなどとは一度も思わなかった人に似ていたりする。だから逆に不思議だ。なぜ生きているときに、この人はこの顔ではなかったのか。

遺体とは、すでに意識を手放した身体だ。それは物質だ。物質の、かつては顔だったものだ。しかし残された我々にとって、未だにそれは顔に見える。でも彼ではなく別人になってしまった。意識と身体は完全に別ではないのだ、身体も消えるのだ。生前の彼は消えたのだ。

折れる

寒い朝、駅前でポケットティッシュを配ってる人、ビラだかチラシかを配ってる人、工事現場の警備で立ってる人たちは、もしかしてこの世で一番辛い仕事をしてるのではないか。

暑さは身体への負荷が高いけど、寒さは心への負荷が高いというか、寒さが身体より先に心を閉じさせ、収縮させ、ダウンさせる。心は暑さに対してあまり敏感ではないというか、ようやく気づいた時にはダウン寸前みたいな感じがするが、心が寒さに気づかないみたいな状態は考えにくい。

単に、自分が暑さより寒さのほうが辛いと言ってるだけなのか。たとえば十分間だけ我慢するなら、灼熱地獄と極寒地獄どちらがいい?と言われたら、たしかに前者を選ぶだろう。

心が折れる」という修辞はまさに、寒さに耐えられなくなったときこそ使われるべき言葉だと思う。その事態を表現するために考え出されたのではないかと思う。

全然話は違うけど、以前「猫たちのアパートメント」という映画のなかで、「人間は猫に思い入れして缶詰のごはんをあげるけど、猫から見たら人間はみなただの缶切りである」とか言うセリフがあって、そういえば人間の自分が、他人を見て人間だと思わないシチュエーションはあるな、と思う。

たとえば朝の混雑したいつもの時間にいつもの電車に乗って、車両の中程まで移動したとき、前に座ってる人がたまたま、いつも必ず数駅先で降りるとわかっているいつもの人だったときに、自分は幸運を感じる。あと少し待てばその席に座れるからだ。そのとき僕は目の前に座ってる人を、電車の座席に座ったときの身体感覚、あの力の抜けたような温もりに包まれたような、あの感触そのものだと認識している。その人物の、人間として動き考え生きているだろう類の想像はいっさい広がらない。人間ではなくて空席だと思っている。

しかし、そんなことは珍しくもないし、書くまでもない話だ。いくらでも思いつく。逃亡者が警官を見たとき、男が女を見たとき、スリが泥酔者を見つけたとき…。

寒い夜

明らかに今シーズン一番の寒さだった。会社を出たらとんでもなく冷たい風を受けて、身体の輪郭が無理やり際立たせられた感じで、呼吸をくりかえしてるだけで、体温がみるみるうちに外へ逃げてしまいそうだ。

ふと見たら、コートの表面に白い小さなゴミがいっぱい付いていて、うわ、なんだこれはと思って、手ではらったらゴミではなくて雪だった。見上げると、ビルに挟まれた狭い夜空から、微細な塵のような雪が宙を舞いながらゆっくりと落ちてくるのだ。たぶん長く降り続く雪ではなさそうだけど、それにしても厳しい夜になった。きっと開けられたドアや、窓や、仕切りのない部屋のことごとくが、その場にいる人にとっては辛い。誰かが出入りして、何かが動く、そのたびに冷気がさーっと入り込んでくるのを、黙ってじっと耐える夜になるだろうと思った。