ノハコで、井上実展「松の木の下」を観る。
何かが描いてある絵であり、それと同時に、何かを見るときの絵という感じもする。
たとえば雑草の生い茂る地面の絵だとしても、それとともに、そのような見え方、そこまでぐっと目を近づけて、あるいは虫メガネか何かで拡大して、雑草たちの様態を子細に見たときの様子そのものが、絵になってる感じもする。
さらに言えば、それは言うまでもなく、見ているのではなく描いている、ふつうは意図や目的にしたがって描いているはずが、そのしたがう対象の気配が希薄で、はじめもおわりも示されずにただ描かれた、それが偶然にこうなった感じもある。
そんなはずはないのだが、人の意図や期待に満たない場所で、あたかもたまたまそう見たかのように描かれた、ぐっと目を近づけたらこうなった、という感じもする。
ただ今回の出品作に、これまであまり見たことのない、空や雲や雷や、木漏れ日落ちる並木道を描いた絵があった。そのことで「これを描こう」と意思する存在の気配が浮かび上がる感じもした。
「これを描こう」と意志するなら、ふつうそれは、画家ということで、描く対象を決めるのはたしかに画家以外にはない。対象を選びそれを描く、ぎりぎりかすかに、その意志(意図)はある。始めから終わりへ向かう因果もある。とはいえそれはやはり、意志や意図というよりも天候の推移のように、風で移動する何かのようだ。他者に委託するなら「発注」だが、そういうことではない手放し方がある。手法も重要だが、手法だけでこうはならない。
そして観ているほうも、いつもはじめは、観ようとするからいけない。会場に来たばかりなこちらの大雑把な意欲が、しばらくのあいだ、はぐらかされる。適当な妥協点をすぐに示してくれて、簡単にこちらに合わせたがる「親切な」絵は世の中に多いが、これらの絵はそのようなものではない。おせっかいな態度でもっともらしい体験を持ち帰らせるのではなく、ただ待っている。
ただ流れに乗れるかどうか、観る者は自分をじょじょに調整しながら、絵の前に何度か立ち直しチューニングを繰り返して、不安定な乗り物に乗ろうと手探りで試している。あるときふと、何か些細な箇所に引っ掛かりが出来て、そこから観終わらなくなって長くなっていく、いつもの流れが出来てくる。
それが空であれ雲であり雷であれ、それを見て、何かに引っ掛かって、視線の先がそこに魅入られるなら、それはすでに言葉で示すことのできる対象ではなくて、言葉では説明不可能な、この平面作品のある箇所、名指すことのむずかしいある部分だ。
それは出来事、あるいは今乗れたという感覚に近い。それで見えるものが変わり始め、動き始めると、こちらの認識システムは息継ぎのリズムを失い、脈拍が上がってあえぎ始め、下手な泳ぎでバタバタと手足を動かすみたいなことになる。いつもながら、まさに釘付けになり、そこに感想も何も持ちようがない。