2022-12-01から1ヶ月間の記事一覧

荒馬と女

Amazon Primeでジョン・ヒューストン「荒馬と女」(1961年)を観る。本作に出演しているマリリン・モンローはこの時で34、5歳か。最初の登場シーンで、あの人口に膾炙したイメージのマリリン・モンローとはかなり違う容貌に思えて、不意打ちを食らう感じがあ…

M★A★S★H

ロバート・アルトマン「M★A★S★H マッシュ」(1970年)をDVDで観る。おそらくこの映画が作られた当時と今とでは、受ける印象がもうずいぶん違っているのだろうなと思い、当時の観客がこれをどのように感じ取っていたのだろうと、推測しながら観ていた。 主人公…

レンタル

自転車にはたまにしか乗らない。でも稀に必要があって自転車を使いたいと思ったとき、所持する自転車のタイヤの空気は必ず抜けている。なぜかそういうものだ。しばらく雨風に晒されて汚れてタイヤの空気も抜けている自転車を、乗るたびごとにメンテナンスす…

行き方

今さらながら、朝の駅から会社のビルの入り口まで歩く10分足らずの時間に対して、言葉にできないほど飽き飽きしたと思う。これほどまでに面白くない時間があるだろうかと思う。すべての景色とすべての前後を歩く人々に対して、ことごとく飽きたと思う。今ま…

年末

なぜか今年はとくに、ほとんど年末という感じがしないのだけど、そもそもこれまで自分は、何をもって年末感を感じていたのか。年の瀬、師走と呼ばれるあの感じ。買い物客の賑やかな列、かきいれ時の店や酒場、打ち上げ、宴、乾杯、喧騒、交わされる定型の挨…

時間移動

まだよくわかってないくせに、適当な想定で書くけど(必要なら訂正したい)、フィクションに出てくる「タイムリープ」とは、登場人物の意識が、過去の同人物へ移行するというものだ。 これが実現できる世界とは、つまり「時間とは何か」と「私とは何か」が、す…

僕は字を書くのがじつに下手で、自分が書いた字を見るだけで嫌になってくるのだが、そんな自分が一年でもっとも多く字を書くのが、この師走の年賀状書きの時期である。とはいえ僕が書く年賀状なんてまったく大した枚数ではないのだが。 たまたま筆記具の中に…

にわのすなば

ポレポレ東中野で黒川幸則「にわのすなば GARDEN SANDBOX」(2022年)を観た。 驚くほど、何の変哲もない、何の見栄えもしない、只の風景ばかりが出てきて、そこをまた人々がただ、ほっつき歩いていた。 永井均の本を読んでいるからといってすぐに感化されるの…

A系列・B系列

A系列:過去、現在、未来B系列:より前、より後 「A系列」は、客観的に、過去から現在を経て未来へいたるまでの流れを、フラットに示す。「B系列」は中心的現在を前提として、その時点より前か後かを示す。 A系列の不可欠性について 現実には存在しない想像…

変化

変化なしに時間はありえない。変化とは何か?何かが生成し消滅することか、何も生成消滅しなかったとしても、その対象以外が何かしらの動きをあらわすから、結果的に時間はありうると知覚できる。 しかし現在は相対化される。時間とは、現在に何かが、変化を…

相対化

マクタガート「時間の非実在性」(永井均著、翻訳)を読んでいる。 私がいて、私の過去の記憶があった、そして未来の予想がある。その私そのものが、いつしか過去になっている。現在とは何か?「今」という端的な現在を、現在と呼びたい。しかし、私は前述のよ…

生きる歓び

生物がもし、ベルクソン的な作用/反作用システムとして存在するのだとしたら、「死」というものももしかすると、今まで想像してきた感じとはちょっと違うのではないか…と、そんなことを考えたくもなる。 生物は自らを維持するために知覚し、時間を感じ、空間…

三枚おろし

昨日、ひさびさにアジを三枚おろしにした。出刃包丁を握るのが数カ月ぶりだったのだが、いざ始めたら序盤で手が止まった。 ゼイゴを取り、頭を落とし、その後ハラワタを取る、そのはずだけど、頭を落とすときの、包丁の刺しこみ方のイメージがさっぱり沸いて…

冬麦酒

真冬の晴れ渡った空の、まるで元日のような天気だなと思いながら、駅前まで歩く。人通りは多くてスーパーのレジもなかなかの混み具合だったけど、それ以上にドラッグストアのレジの行列がすさまじかった。駅前に三軒くらいある店のどれもが猛烈に混んでいて…

感覚質

トキ・アートスペースで、杉浦大和展を観る。(http://tokiart.life.coocan.jp/2022/221206.html) ざわざわ、ゆさゆさとした感覚。すべてが未完了の領域にとどまりながら、あらゆる出来事の可能性というか気配のようなものとしてたえず動き回っている。このよ…

質と時間

この世界や宇宙が、はじめに前提として巨大な空間を広げている、というわけではない。だからと言って、すべてはこの私という主観が見て感じているだけで、すべては私の脳内で起きていること、というわけでもない。 この世界や宇宙は、たしかに存在するし、こ…

ほうじ茶

いよいよ寒くなってきたせいもあると思うが、朝、目覚めてすぐのときと、夜の食事が終わって酒もそこそこ飲んだあとと、何かを飲むなら、温かいほうじ茶をいただくのが、とてもしっくりくる。 ほうじ茶というのは、お茶のなかでもまあ大味で香りも味わいも知…

仮説

ベルクソンに関する本を読んでいて、これほどまでに壮大で突拍子もない「仮説」があるものか…と、ふと我に返ったかのような、今までの全てからつきはなされたような感じを、ふいにおぼえるときがある。 そんなことは、しょせんすべて、絵空事かもしれないで…

旅程

しかし考えてみれば、旅行になど出掛けるまでもなく、日々がずっと仮宿暮らしのようなものだ。そういう生活を、我々(自分と妻)は、続けてきた。ほとんど何も積み重ねることなく、ただふらふらとした生き方をしてきたのは間違いない。まったく二人だけで、勝…

旅行

旅行に行きたいという意欲が、徐々になくなってきたと思う。たまには行きたいかな?と思わなくもないのだけど、頭の中で想像するうちに、まあいいか…となる。 紀行文を読むのなら、あいかわらず好きだ。映像で辺鄙なロケ地が映し出されるのを見てるのも好き…

私、あなた、彼、彼女

ザ・シネマメンバーズで、シャンタル・アケルマン「私、あなた、彼、彼女」(1974年)を観る。 これを作ったときの作家本人はまだ24歳。その年齢ですでに腹を括ってるというか、作家として全くブレてない感じがして、すごいものだと思った。ある種の図式性と…

リトアニアへの旅の追憶

渋谷のイメージフォーラムでジョナス・メカス「リトアニアへの旅の追憶」(1972年)を観る。 光の明滅、ブレ、揺らぎ、繰り返しと切断によって、あらわれては消えるイメージ。損なわれるのではなく、生み出されるわけでもなく、今目で見ているそれが、イメージ…

知覚

私の知覚は、私が生きるための必然として、私に与えられた。 夕陽が落ちていくのを、私は知覚から質へと、持続として体験質にまで落とし込みながら、それを見ている。 相手との関係がまず「与えられる」から、距離を与えられる。(距離そのものは当初からあ…

客観

ベルクソンの「客観的」とは、我々がふつうに思い浮かべる客観とは、かなり違う。そのことは事前に充分わかっているはずだったのに、本を読んでいるとたびたび忘れてしまう。まるで、何度同じことを指摘されても、毎回同じところで間違いをおかしてしまう出…

盲視

「世界は時間でできている」を読んでいて出てきた「盲視」という視覚現象を知って驚いた。以下はウィキペディアの記述。 盲視(もうし、英: blindsight)とは、視野の一部分において知覚的には盲である人物が、知覚的な経験('クオリア')を伴うことなく、視覚…

他主観

映画を観るのは、ある意味で他人の主観に自分を明け渡すようなものか。 映画を観終わったあと、印象に残った場面を思い出すとき、それは自分自身の過去の記憶を思い出しているわけではないが、かつて経験した楽しさや緊張としてそれを思い出している。 それ…

ハラカミ

NHKの星野源が司会する番組でレイ・ハラカミ特集をやっていたのをみて、「JOY」とか「終わりの季節」を久々に聴いたら、すごく良くて、思わずちょっと狼狽えてしまうほどだった。とくに「終わりの季節」は、今さらながら空前絶後の傑作だと思う。あらためて…

冬の日曜日

肌寒さも含めて、非の打ちどころなきパーフェクトな晴天。空の青と紅葉の赤や黄色が色同士でこれみよがしにぶつかり合っている。午前中に髪を切ったら、お店の窓から入り込んでくる光の量がすごかった。今年一年ありがとうございましたの、他人と挨拶のやり…

過去空間

上野駅の、とくに銀座線と日比谷線に乗るときの、駅構内の狭さと天上の低さはとても昔っぽい感じがする。たぶんそのことを自覚して、近年はわざわざ構内の照明を暖色系の色にして、あえて薄暗い雰囲気にしているのだろうと思う。天井の低さと言えば上野の松…

賭博

賭博がすごいのは、それに飽きてしまうことがないということだ。賭博は、物語ではないし、何かの比喩でもない。目の前に展開されている、その回転体をひたすら見ているだけ、それだけのことが、いつまでも続くのがすごいのだ。 下手な表現だの芸術だのよりも…