予約していた時間に美容院へ向かう。神経痛を患った件を話したら、去年同じ症状を経験したと美容師のTさんが言う。そうなの、Tさんも背が高いからね、と言うと、はい私、姿勢悪いんです…と返され、いや、そうは言ってないが、まあ、たしかに僕も猫背で、姿勢…

自宅から徒歩数分のところにある整形外科を訪れる。数年前に開業したらしい、まだ新しい建物の入口をのぞくと、朝九時だというのに待合室には座る隙間もないほどたくさんの人が。受付のスタッフらは忙しさで殺気立った雰囲気である。前の通りは歩行者もまば…

起きたら首回りに激痛、上体を起こすのにしばらく難儀する。起きてしまえば首回りの痛みは液体のように上腕部へ移る。ただ昨日までの、肩から二の腕にあったはずの痛みが、その裏側へ回って、今は肘の少し上あたりに痛みの中心がある。患部が安定しないので…

未明より、首および肩から二の腕にかけて、痺れと痛みが広がり、ああこれは五十肩だと思う。いやだな、九年前にも同じ症状が出て、あのときは数か月くらい、そこそこ不自由な思いをしたのだった。とくに診療も受けず、自然治癒まで我慢したというか、我慢で…

RCサクセションの「the TEARS OF a CLOWN」が発売されたのは1986年10月。当時は中学生だった。通っていた塾の向かいにあった貸しレコード屋でそのジャケット(当時はLP)を見て衝撃を受け(ぼくは当時まだ「Cheap Thrills」というアルバムの存在を知らない。「B…

DVDで川島雄三「貸間あり」(1959年)を観る。とにかく、すべての人物はじたばたと大騒ぎし、右往左往し、すべての鳴り物は音を立てる。あらゆる要素を詰め込めるだけ詰め込んで、電源を切らないかぎりいつまでも鳴り響き続ける自動楽器のような映画だった。こ…

古沢憲吾「ニッポン無責任時代」(1962年)を観る。観始めてすぐ、相当昔だけど、前にも観たなと思った。「3-4×10月」もそうだったが、自分の頭の中ですでに粉々になっている破片のような記憶で、もはやそれ単体で想起されることはないが、こうして再見すれば…

U-NEXTでグレタ・ガーウィグ「バービー」(2023年)を観る。面白かった。思った以上に生真面目で優等生的で、いかにも昨今のハリウッド的でもあるし、後半の、男性/女性の対立構図は、あまりにも鮮明過ぎるわけだが、とはいえ「目覚めてしまって」からの(馬!)…

DVDで森田芳光「家族ゲーム」(1983年)を観る。きわめて演劇的に図式的に、虚構性を隠さない視点をもって、当時の世間一般に流通する家庭のイメージを示し、そこに異物的な家庭教師を放り込んで、生じる出来事を作品とする。その方法が見事に上手くハマったと…

Blu-rayで北野武「3-4×10月」(1990年)を観る。じつは、はじめて観たと思ったが、たぶんそんなことない。ところどころ記憶に残存している。ずいぶん昔だろうけど一度観ているようだ。 カタギの世界を生きるとは、暇を持て余して部室にたむろする高校生のよう…

人身事故で、走行中の電車が突然一時運転見合わせとか、徐行運転になるとかで、帰宅通勤の途中、もう夜遅くだというのに、到着時間が大幅に遅れることはたまにある。 そうなったとき、電車の乗客のうち誰かは、予期せぬ事態に苛立ち、焦り、ため息をつき、ず…

良い作品になりつつあるという感触を強く感じながら制作している、そんな夢を見ていた。 切り刻まれ、折り重ねられた紙片が、所々剥離しながらも、支持体の上に貼りつきインパクトのあるテクスチャーで迫ってくる。非常に好ましい混沌の度合い、未整理ながら…

青山拓央のNote(https://note.com/aoymtko/n/n0a0018098591)「死者の時間と他者の時間」を読み、ある小説を読み終えて感無量…みたいな気持になる。結末にたどりつくまでの流れが、うつくしいのだと思う。 同時に、死がいつか無へ移行することの厳粛をも思う…

荒木経惟が撮影した上野駅前の写真。不忍口を出てすぐの上野松竹デパートだが、見ると思わず目をむくというか、ぎょっとさせられる。かの有名な東京の上野駅前であるとは信じがたい景観であり、しかし同時に、あ、なつかしい、昔はたしかにこうだったわ、と…

U-NEXTで、ジャック・ドワイヨン「少年とピストル」(1990年)を観る。きびきびとした話の運び方が素晴らしい。説明なしに、出来事だけでぐいぐいと進んでいく。主人公の不良少年がいて、ふだんから少年を気にかけている…というか素行を監視してる刑事がいる。…

DVDで北野武「ソナチネ」(1993年)を観る。じつは(ちゃんと通しては)、はじめて観た…。 北野武がよくわかっているのは、撮りたい映画の題材として、自分自身がもっともそれに適ったイメージであるということだ。自分がうつむいたままで何らかのセリフを呟くだ…

DVDで北野武「その男、凶暴につき」(1989年)を観る。じつは、はじめて観たのだが、これが監督第一作目で、もうすでに「北野映画」は完成の域にまで達していたのだな…。 ビートたけし演じる主人公の刑事は寡黙で、挨拶されても相手の顔もろくに見ない。シャイ…

正月に実家の自室にあった98年から99年くらいのミュージックマガジンの何冊かを適当に持ち帰ってきたので、それをたまにぱらぱらとめくって読んだりもするのだけど、どのページもよくおぼえてるなあ、当時はなんと真面目に読んでたのだろうかと、我ながら呆…

無着成恭 編「山びこ学校」の最初の方にある、本書中おそらくもっと名高い江口江一の文章「母の死とその後」は、これはたしかにすごくて、それは書かれている内容がというよりも、それをこのように文章としてあらわしたことが、彼にとっての形式の獲得であり…

とつぜん、得体のしれない道具を手渡される。何に使うのか、何が出来るか、まったくわからない。とりあえず触ってみる。可動部分を動かしてみたり、凸部を押してみたりする。すると何らかの状態変化が起こり、それを繰り返しているうちに、何に使えるものか…

いちばん良く利用するコンビニでは、自分が商品を何ももたずにレジに近づくと、店員が自動的にホットコーヒー(R)の紙コップを持って待ってるようになった。だからもし何か別の商品を買いたいならば、あらかじめ手に商品を持ってることがはっきり見える状態で…

Amazon Primeで川島雄三「喜劇 とんかつ一代」(1963年)を観る。冒頭から、あれは上野の不忍の池、そして弁天堂ではないか。そして仲町通り、池之端、湯島天神、上野精養軒ではないか。ついロケ撮影された当時の上野の景色にばかり目が行ってしまう。 本作の…

Amazon Primeで川島雄三「青べか物語」(1962年)を観る。60年代初頭、空撮で東京湾上空をカメラが見下ろしつつ移動し、そして江戸川を見やりながら千葉県方面へ。埋立工事の進む海の景色、やがて遠景まで際限なく広がる田園と、細く長く伸びる河面におびただ…

うまれてはじめて、徹夜をしたのはいつのことだっただろうか。おそらく大晦日から正月にかけてではないかと思うが、あの時と特定できるような記憶はない。中学生になった頃には、朝まで起きていることなどべつに珍しくもなかった。深夜ラジオを聴くような時…

「ダゲール街の人々」に出てくる商店街の人々を見ていて思い出したのだけど、僕が子供の頃、つまり80年代の地元の埼玉郊外にも、まだ商店街はあった。もちろん駅前のスーパーとか駐車場完備のショッピングセンターもすでにあったし、普段の買い物はもっぱら…

関川夏央『砂のように眠る むかし「戦後」という時代があった』を読んでいたら、無着成恭という名が出てきて、おお…いたなそんな人、と思う。 僕が小学生のころ。夕方、台所の棚の上にあった小さなラジカセのAMラジオから「こども電話相談室」の、軽快という…

荒木陽子という人は、1947年に生れて、1990年に死去した。荒木経惟の妻であり多くの写真でモデルを務めた。 僕の母が1944年生まれで、先日に傘寿だったわけで、荒木陽子とさほど変わらない年齢なのだ。荒木陽子はそれこそもっと大昔の人物だと思っていた。「…

青空文庫で芥川龍之介の「羅生門」を読んだ。冒頭、下人は決めあぐねている。このままだとおそらく餓死する。生きるためには盗みや悪事も働かねばならず、いよいよその覚悟を決めねばならないが、しかしその勇気がない。 羅生門の下には死体がたくさん積み置…

世田谷美術館の企画展に載っている荒木経惟の写真になぜか妙に惹かれ、図書館で荒木経惟の写真集「東京人生」と「センチメンタルな旅1971-2017」を借りてきた(企画展に出てる写真は「東京日和」収録らしい)。 「東京人生」はデビュー前から2006年頃までの仕…

Amazon Primeで、アニエス・ヴァルダ「ダゲール街の人々」(1975年)を観る。アニエス・ヴァルダ自身が住人でもあったパリ14区"ダゲール街"で商売を営む人々をカメラがとらえる。日常の仕草、香水の調合とか、洋服の仕立てとか、肉を切るとか、パンを焼くとか…