「パチプロ日記×」田山幸憲

パチプロ日記〈10〉


パチンコにも色々あるが、「デジパチ」とか「セブン機」と呼ばれる一般的な台というのは、台の真ん中辺にスタートチャッカーがあり、そこに玉が入ると、デジタル制御された抽選機能が稼動する。結果、大当たりを引き当てると、一定量の出球を獲得できる訳だ。大当たり後はオプション的に、次回の大当たり獲得が保証されるとか、有利になるとか、台やメーカー毎の、様々な工夫が凝らされているが、基本的なルールは前述の通りと思う。


単純な考え方をすれば、出玉の量を投資額が上回らないうちに、次の大当たりを取得できれば、遊戯者は儲かり続ける事になる。実際なかなか儲からないのは、そう都合よく当たらないからであるが、百分の一の確率のくじを百回引けば理論上必ず一度は当たることを前提とした場合、百回の抽選権獲得に必要な投資額が、1回の当たりでの回収額を上回らなければ、その台に関わり続ける事での「利益」が保証される。と言える。


こうして、世の中のパチプロたちは、予想できる回収額を、できるだけ少ない投資で達成するべく、「ボーダーを上回る」(見込まれる回収額が抽選権獲得に必要な投資額を上回る)優秀な台を、全国の都道府県からあらゆる情報入手ルートを駆使して探し、そんな台があれば、連日サウナ泊まりでその台の前にひたすら貼りつき、大数の法則に拠って確率が収束していくのを、じっと待ち続けるのである。


現代パチンコで儲ける方法は、おそらくこの方法しかないのではないか?と思われるが、ただしかし、この方法には重大な欠点がある。それは「自分の人生をどうするのか?」という問題だ。


…笑う…というか、やや大げさな言い方だが、しかし冗談でもないのである。少なくとも、台が稼動しているうちは、ひたすら玉を打ち込み続け、試行を繰り返すのが、この方法の基本である。しかし、時間は有限であり、人間の生活時間も有限である。なかなか理解してもらうのが困難と思うが、人は、「試行し続ける機械」には、絶対になれない。この方法を続けると、あまりの「果ての無さ」に、自分の中で、何かが壊れてしまうのである。もちろん、利益は出る。「確率の法則」だなんてかったるい事を言うまでもなく、ボーダー越えした台を2〜3日打ち続ければ、相当運が悪くない限り、まず結構な額を収得できるのではないか?…しかしそれでも、通常の人間は実際、そのような行為を継続する事はできないのである。それを続けることができる人というのは…


ところで、死してなお慕われ続けている日本最強のパチプロ。故・田山幸憲(平成十三年 7月4日17:03に心不全のため逝去 享年54歳)は、勝負するパチンコ台を見極める際、二つの観点から判断を下していた。


ひとつは「横の比較」…ずらりと並ぶ台のそれぞれポイントとなる釘を比較し、相対的にもっとも優秀な台を決める。もうひとつは「縦の比較」…特定の台における前日、前々日の釘の状態を記憶しており、今、目の前にある状態と比較する。その台の過去の状態と実績を念頭に予想される今日の「出来」を判断する(今日この台はやる気だ。などと表現される)。…つまり「横の比較」に拠って選出される優秀台は、必ずしもその日の勝ちを保証しない。半可通が飛びつきそうな媚態で、客を誘うような姿をしていても、田山氏一流の「縦の比較」によって、その台の大よその素性は、判定されてしまうだろう。


しかし、ここからが重要だ。田山幸憲は台の「波」を読もうとした。この台は五千個打ち込むと爆発する。とか。二千発まで。とか…これは何の理論的根拠ももたない考え方で、そもそもパチンコ台には「あと何発受けたら出やすくなる」といった機能は(不正改造が為されていない限り)無い。たしかに現実として、ある台が突如として、火を吹くように大当たりを繰り返し始めるという事態はよくあり、それが「台の波」というイメージを齎すのは、とてもよく理解できる。しかし、繰り返すが、この考え方に科学的根拠はなく、所謂「オカルト」と呼ばれ蔑まれる思考である。田山氏のスタイルは「オカルト」であった。と言っても良いかもしれない。


しかし、ここで考えなければいけない。人はいつか、台を離れなければいけないのである。確率の奴隷にはなれないのだ。その事を誰よりもよくわかっていたのが、田山氏であろう。…特に晩年、田山氏のスタイルはほぼパチプロとはいえないような様相を呈していた。雑誌連載用の日記を書くため、無理やり打ってるようにすら感じられた。最後の数年間に至っては、長時間打つことがほとんどなく、大体午後から競輪場へ行くことばかり考え始めるのであった。


いずれにせよ、このパチプロのパチンコ屋での振舞いや、酒の飲み方や、人への心遣いや慮りや、それ以外にもたくさんの、他者との関わりにおいての一挙手一投足は、周囲の人々からも、全国に無数にいたであろう日記の読み手からも、いつも強く共感されていたと思う。そして、深く愛されていた。これほど不特定多数の人間から、一方的に愛された人間は、稀ではないだろうか?田山氏が「ネグラ」とするパチンコ屋を「記念入店」する者は後を絶たず、田山氏も缶コーヒーや「牛乳屋さんのコーヒー」の差し入れを快く受け、親しまれ、愛された。


何よりも、「パチプロ日記」の文章が、いつも陶然とさせられるほど穏やかで、何の変化も無く、美しく、端正で、そして、人間がもてる本来の心の優しさに満ちていた気がする。ほんの些細なことでも「得体の知れない涙がこみ上げて」深く傷ついてしまう、この初老の男性は、おそらく当時、ほんとうの「天使」のオーラに包まれていたに違いない…。


田山氏の日記は大抵、朝、目覚め、開店前のパチンコ屋までひたひたと歩く。道行く女性に目を奪われたり、青空に浮かんでいる恐ろしく白い雲に呆然としたり、春の桜が満開となって突如行く手に出現して、ピンク色のすごさに驚愕したり…ひたひた歩いてパチンコ屋の前にある喫茶店で一服する。開店後、人影もまばらな店内で、確認すべきいくつかの台を見回り、二千発まで…。なんだこりゃ!?…ケも無し。お次の台へ。お初にお目に掛かります280番台。打ち始めたらまずまず回る。…三千発までは文句を言わず打ち込むつもり。…デキた!してやったりの思い。あれよあれよと言う間に2万個を越える勢い。このとき3:30分。トイレで金勘定してみたら、使った金が二万五千円。今○○個だから、然るに○○円の勝ちとなる…。みたいな…これがどこまでも続く。いつまでも続く。一言で言えば、「幸福」ということ。「幸福」が、そのまま、文章になっているのだ。


繰り返す。人間は「確率論」だけで生きることはできないのだ。人間は本来、「幸福」を求めるのであり、それを忘れて「科学」や「正しさ」や「確率論」の信仰だけに生きる人というのは…そんな人こそ本質的に・・・「オカルト」と呼ばれるだろう。


※田山幸憲についてはほかにもいろいろ書いてますのでどうぞ。
https://ryo-ta.hatenadiary.com/search?q=%E7%94%B0%E5%B1%B1%E5%B9%B8%E6%86%B2