「青空娘」


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ここで試されているのは、とにかくどれだけ色んなものを振り切って走る事ができるのか?という事なのだと思った。屈託も感情もべたつきも絶対に生じないような徹底的なスピードを第一優先とした場合、登場人物というのはすべからくああなってしまうのではなかろうか?この映画に出てくる人物というのはもう全員アタマがおかしいとしか思えないのだが、物事というのが、この現実的なもっともらしさのタガを外れて、ある一定以上のスピードで勝手に機械的に回転数を上げ始めると、人はその事に驚いたり恐怖したり悲しんだりするのではなくて、ああいう完全にアタマのおかしいような、人間としてのもっともらしさを根底から失うような事になってしまうのだろう。


実はこの映画を、元々CSでやっていたのを録画して、それを後で観ようと思っていた。しかし録画中、何となく終わりまであと10分くらいの途中の箇所からラストまで見てしまったのだ。で、若尾文子がお父さんやその家族とお別れするあたりのところで、おぉこれは傑作だ!と思った。「さようなら」「さようなら」と順々に挨拶していく別れのシーンの呆気にとられるような最良の阿呆らしさ!…早くアタマからもう一度観なくては!と思ったのが、9月の上旬くらいである。


で、やっと冒頭から観たのが一昨日。で、前述したような速度感とか、あとミヤコ蝶々のあの喋りの素晴らしいドライブ感とかもあって、やはり圧倒的に面白いと思った。…のだが、途中で猛烈に眠くなってしまい一時間を過ぎたあたりでその日は途中リタイアした。


で昨日、残りを観て、一時間半足らずなのに3分割にして…おかげでかなり各要素がばらばらに記憶されたので、それが面白さに拍車を掛けてるところもあるかもしれない。もし続けて一挙に観ていたら、面白い要素やみるべきところが、そうしても社長の御曹司と高校の先生との恋愛の行く末とかに引っ張られすぎてしまい、そのまま薄く流れてしまい過ぎる可能性もあるだろう。だから逆に良かったかもしれない。


しかし登場人物間のやり取りの「とにかく内容なんてどうでもいいから、セリフをやり取りしさえすれば良い」とでも云わんばかりの感じはある意味ものすごい。憎たらしいガキの「ヒロシ」が若尾に対して従順になるきっかけが、若尾との本気の取っ組み合いであり、力で負けて完全に地面に押え付けられて堪忍させられたのだという事の微かなエロさというか悪事の匂いさえ漂う感触とか、田舎に帰ってきた若尾に母親がたずねて来たいきさつを涙ながらに話すおばさんが、直前までは目をそむけたくなるようなものすごい醜さの汚い下着姿の肥満体を晒して爆睡していた事とか、そのあたりの妙な阿呆らしいあとあじが残りまくるのも、ものすごい。どの登場人物もものすごい異様な素晴らしさだが、とりわけ奇怪なのはやはり父親(信欣三)である。久米宏を100倍にオーバードライブさせたような、もはや父親としてどうとか以前に、通常の人間と認める事すら難しいようなアタマのおかしい存在としてヘラヘラ笑っている…。これは笑えるが怖い。ミヤコ蝶々も全編にわたり素晴らしい関西弁を炸裂させているが、冒頭で、田舎から遙々汽車に乗って、遂に東京にやって来て、右も左もわからないお上りさんとしてきょろきょろしてる若尾に、いきなり話しかけるのがミヤコ蝶々で、言葉がアレなため、既に故郷とか異郷とかの感触が最初からなし崩しになっているとも言える。


…そして、これらは「大映ドラマ」と呼ばれたテレビドラマ群のエッセンスの最初期の萌芽だろうという事も、何となく想像させられる。所謂「クサさ」とか「ノロさ」のイメージを思い浮かべそうになる「大映ドラマ」であるが、実はむしろ、元々はこういう、あらゆるドン臭さを振り切っていく「ものすごいスピード」を志向していたのだろうなあと思う。(大映ドラマについても詳しくないのであくまでも推測です)