「父ありき」


父ありき [DVD] COS-018



僕はやはりこの手の物語には弱い。話の流れに激しく感情を揺さぶられて映画それ自体を突き放してどうこう考える事ができない…。まあある意味、幸せな体質なのであろう。しかし小津映画にしか無い不思議な緊張感というのがあって本作にもそれが横溢しているのは強く感じる。たとえば小津映画の登場人物はいきなり訳の分からない事を云い始めたりはしないし、小津映画の物語はそれ自体で熱暴走し始めて誰にも回収不可能な場所まで突き抜けてしまうような事も無い。小津映画だから当たり前だが。…しかし何というか、それらのすべてが起こり得る可能性だけは、たしかに含有していそうな危うい世界でもあるのだ。


小津映画で、二人ないし三人の人物が、同じ方向を向いて並んで佇んでいたり座っていたりする光景は多い。これが何を意味しているのか?何を現しているのか?について言葉で説明する事は不可能だろう。ただそれがあるリアルさを醸し出しているのは間違いがないと思う。リアルさ、というか、そのような秩序付けが為されている事で、ある現実がそこにあるかのようになっている。


他の小津作品と同様、本作もまた様式的で特徴的な要素がはっきりわかる作風だが、2003年の国際シンポジウムをまとめた朝日選書の本でパネラーの吉田喜重が、小津にとって世界は限りなく無秩序でそれだからこそせめて作品の中だけでも不自然なまでの様式的技法で秩序付けを為そうとした、という旨の発言を読んだが、ここでの「無秩序」というのは脳内でイメージするのはとても難しいが、まあしかしそれが、あのような秩序付けによって、少なくとも表層部分においては小津映画が小津の、たとえば「父ありき」として、現れて来るのだ。そういう奥行きの気配がある、というのが重要なのだ。まず目の前のものを目の前のままに捉えて、しかしそこに如何なる秩序付けの手を施せるのだろうか?いや、この考え方は間違っていて、目の前のものをそのままに捉えるには、その方法しかないのだ。その方法によってはじめて、何らかの訳のわからない何かをも抱え込んだ奇妙な世界らしきものが立ち上がってくるのだ。


佐野周二が、幼少の頃と全く同じように俯いて無言で父の言葉を聞き入れ、一緒に暮らす事をあきらめるしかないのは、それがあるシークエンスとして映画の中で反復されるべきだからだ。しかし不思議なのは、なぜか二回ないし三回繰り返す、というのがそれだけで、あるフレイヴァーを生成せしめるのだ。…しかし全く不思議な事だ。なぜ二回ないし三回、似たような事が繰り返される事、それだけの事に、感動が伴うのだろうか?


しかし小津映画には、たとえば社会の制度、世間への儀礼、しきたり、古来からの風習、伝統、などの力というのが、表層部分でしっかりと稼動している。そういう世界の中で、子供のうちはしっかり勉強して偉くなる事を目指して頑張らないといけないし、年頃になったらそろそろ結婚を考え始めなければいけない。これらは疑う余地がない。当然の事なのだ。実際嫁がれたら寂しいとか死なれたら寂しいとかも当然の事だ。…諦念とか付従とか、そういう言葉でも良いのかもしれない。で、それら自体を良いとか悪いとか云う事はできない。というかそんな事を言っても意味が無い。小津映画はそういう「社会の制度、世間への儀礼、しきたり、古来からの風習、伝統」が交差するような「無秩序」な事象の内側で、ある秩序付けが為された瞬間にだけしか存在していない。だから、表層だけに拘っては小津映画を語る事にはならない。…しかし小津映画を観るときのある種の甘美な郷愁の味というのが、僕は個人的に、確かにとても好きではあるので、小難しい事を云わずにそれを只、観続けているだけでも満足してきてしまうのでそれでもいいじゃんとも思うところもあるのだが…


で、前述の意味で表層部分での話に退行してしまうが、観ていてショックなのはこの映画の佐野周二が結局、父の云いつけに従い社会人として立派に成長していく過程で、結果的に徴兵審査にて甲種で合格して、それを嬉しそうに父に報告して父もまた喜ぶ、というところだ。戦後の、娘を嫁に出してしまおうと躍起になってる父親が出てくる諸作品とほぼ同じような流れでありながら、時代が1942年で子供が男子だと、結果こうなってしまうのは、やはりショックがでかい。子供を戦争にやるのも嫁に出すのも、確かに似たようなものかもしれないが。。…まあ、こういう箇所にあまり拘ってしまう事はツマラナイ観方なので自制しつつ観たが、正直僕にとって、坊主頭になった佐野周二を観るショックは、ラストで死に行く笠智衆を観たときを越えていた。(だからこの親子は数年後に「全滅」してしまうかもしれない親子なのだ。いやもしかすると息子は帰ってくるかもしれないが。しかし復員した息子がそのまま「風の中の牝鶏」の佐野周二に重なってしまう妄想も止められないのだが)


あとは飲み会とか宴会のシーンも相変わらず多い。ほんとうにしっかりと時間を掛けて撮影され、物語に組み込まれているのが面白い。始めに幹事の挨拶(佐分利信は「秋日和」とかの結婚式シーンの何年も前に、既にこういうスピーチをやらされていたのか)、続けて今日欠席した人からの電報の読み上げや電話内容の報告、主役たる先生それぞれの挨拶やら出席者との歓談やらも事細かく…しかし小津映画でのこういうところを異様に丹念に撮影して物語に組み込むのはほんとうに不思議に思う。観ていてすごく楽しいから良いのだけれど。