音楽を奏でる


2001年秋のテロ直後、マンハッタンには全く音楽が聴こえなかったそうだ。誰も何も奏でないし、唄わない。話もしない。只ひたすら、黙っている。やる事があれば、やる。あとはただひたすら、黙ってる。じっとしている。救援活動が難航しながらも進み、次第に「結果」が見えてきて、死傷者数が次第に明確となり始めて、悪魔の吐く臭い息のような、微かに残る全身の力をも根こそぎ奪うかのような虚脱感と絶望感が街中に、澱のように漂い始める。人々はますます深く、押し黙る。


やがて日数が経過し、起こった事の取り返しのつかなさが受け入れられ、諦めムードが漂い始め、だるい日常が薄っすらと回復に向おうとするそのとき、ふいに思い出したかのように、音楽は再び始められ、鳴り出したのだという。


そこで再び奏でられ始めた音楽はまったく取るに足りないつまらないメロディとリズムの、凡庸極まりないものだったのだそうだ。随分久しぶりにニューヨークの空気を震わせたはずの音楽は、しかし極めて抑制的で、慎ましく、決してでしゃばる事のないような大人びた表情で、まるで昔からずっとそうであったかのような訳知り顔の表情で奏でられ、まさに「人々の癒し」という機能主義的な役割を全うする事だけを役割として駆動するかのように鳴り響いた。そしてそんな演奏であってもやはり、過去の宝石のように輝く全ての音楽がそうであったように、等しく虚空に放たれて、消えていったのだ。沈黙する人々はやはり今までの全ての音楽がそうであったように、その音を鼓膜に感受し、ある音の波紋として受け止めていたのだろうと思う。