「大いなる幻影」


大いなる幻影 [DVD] FRT-172


ジャン・ルノワールの表題作をDVDにて。香り高き、珠玉の名作という感じ。。今更こういうのを観て名作だとか云って何やら感想をブログとかに書こうとする阿呆らしさと恥ずかしさに耐えなければいけないのである。まったくこんな事になるなんて思いもしなかったよ!…階級とか民族とか国家とか、戦争と平和とか、人間の世界を巡る様々な因子が太く細く行き来し、交差し、流れ去っていく。結局映画を観ているというのは、その目の前で起こる有様をただひたすら眺めているしかないのだし、それでどうこう言うも言わぬもない。なるほどもっともらしい話はいくらでもできるだろう。ここでの「幻影」について、何が幻影なのか?についてひたすらダラダラ書き連ねて細かな云い回しなんかを酒でも飲みつつ推敲する楽しみに淫する事もできるのだろうし、蓮實重彦「映画 誘惑のエクリチュール」をパラパラと読み返して、追悼と題されてはいるもののまったく追悼文らしくなく、只ひたすら苛立ちに苛まれている自分を隠そうともしていないようなルノワールに関する言葉の連なりに触れつつ、なるほど卑猥なる横笛の誘惑ですよね、そうだその罪深き具体性への拘泥だけが真に"フィルム的感性を動揺"させ得るんだよなな…などとしたり顔でうそぶく素振りも可能だろう。


でもまあ、それらを横目に見つつもとりあえず今、自分に何が書けるのか?といったら、最も正解なのは何も書かない事で、もうそれ自体云わぬが吉で、沈黙は金であるが、それでもバカの一つ覚えで何か書くのだとすれば、とりあえずこの映画には、ほとんど女性が出てこないのである。だから最後に脱走して流浪する二人を救うあの、デューラーのタブローがそのまま動いているかのような典型的なドイツ顔の女性が登場してくる瞬間に、観ている者はハッと息を呑まざるを得ない。そんな絶世の美女でもない子持ちの戦争未亡人のドイツ女に、女性という存在一般のあらゆる温もりや温かみが凝縮されていて、渇きに水分が恵まれるような思いにさせられたよなな、と思い返してみたりもする。


もちろん女性がまったく出てこない訳ではなくて、中盤にも少年兵の訓練を見守る婆さん達(笑)が出てくるし、死の床にあるピエール・フレネーとエリッヒ・フォン・シュトロハイムとの最期の会話を押し止めるドイツ従軍看護婦もいた。…しかし、それらはほぼ点在に等しく、この映画には男の体臭にむせ返るような戦時下の混沌だけが横溢している。だから女性の衣服がぎっしりと詰まった箱が捕虜宛に移送されてきた時の、次々と飛び出してくる柔らかくてくしゃくしゃの衣類やコルセットやブーツを男たちが鷲づかみ、手で撫でさすり、匂いを嗅ぐシーンが驚くべき生々しさをもって迫ってくるのだし、その直後、全身上から下まで女性の衣服に身を纏い、ブロンドのかつらまで付けて俄か女装した捕虜兵のひとりが「どうかな?変だろ?」といったときの、あの一同が絶句して呆然としてる有様、そこに唐突に「女らしき何か」が立ち現れている事の奇跡に言葉も出ない状況が、カメラのゆっくりとしたパンで指し示される事に、深く感動してしまうのだ。そして捕虜同士の学芸会みたいな乱稚気騒ぎが爆発する圧巻の舞台へ!


まあ実際、この映画が示している事柄とは、見事にヨーロッパの諸問題についてであって、僕がこういうものをいくら観ても絶対にわからない事はある筈で、それが文化の厚みって事なんだと思う。特にヨーロッパの「貴族階級」というものについて、そこにはある気配というか、予感めいたもにでしか指し示されないのだが、それだからこそ一層強烈な誇りと郷愁が感じられるようにも思う。あの全身を銀で補強した半分サイボーグのようなドイツ隊長の凄み…ああいう登場人物を観ると、今日本をはじめとした世界各国で自意識のカリカチュアとしてもて遊ばれている「キャラ」のほとんどが如何に阿呆らしくて軽薄なものかを身に沁みて感じる。人間に付随してくるある「感触」というものの深みというのは、この時代までが本物で、それ以降は本当にどうでも良いような、貴方が私であっても他の誰であっても構わないような、そういう取替え可能な人生だけが複製されるだけなのだ。…そんな事さえ思ってしまう。まあそれも余りにも無自覚無反省な反動的意見で、やはり幻影を見てるだけなのだろうけど。


「女房の事なんかもうどうでもいい。この退屈に耐えられない。退屈じゃなければなんでも良い。」「俺は反動だ。闘えないとなると、闘いたくなる。休んでいるのは気が引けるし。(遊んでると働きたくなるし、働いてると芸術したくなるby吾妻ひでお)」「今すべき事をすべきだ。ここは収容所だから脱走するところだ。」まったく交差しない様々な言葉たちの豊饒さ。同じフランス人の癖にこうも云う事が違うのに、片や敵国同士の貴族階級士官は、不思議な友愛によって結ばれようともするし、フランス人大尉はそれに反発するかのように、自分の宿命に殉ずるかのように脱走計画を遂行し自己を犠牲にもするのだ。


この決して交わる事のない複数の線が、速度と鮮度を失わないまま決して何かに従属する事無く駆け抜けていく事でもたらされる瑞々しい劇が1937年に作られているという事に、あらためて今更のように驚く。人間はこれほどの知性と豊かさをもっていて、少なくとも民族とか国家とか、戦争と平和とか、人間の世界を巡る様々な因子をテーマにして「映画」として定着させるとなったとき、これほどのすさまじいクオリティの創造物を示しえるのだという事に。しかもそれは今から70年も前だと云うのに!!まだアウシュビッツヒロシマも存在しなかった時代に、これほどの達成があっとは!!…しかし、この映画の完成以後も、世界はある方向への傾倒をやめる事はなく、ある場所においてこの映画はしっかりとスポイルされて厳重に蓋をされていたのだし、戦争は続き、そのまま一気に、第二次世界大戦へと雪崩れ込んでいったのである。本当に今更だが、これはほとんど絶望的な事のように思える。人間は確かにとても素晴らしく聡明なのだが、同時にこれほどの間違いも平然と犯すのだという事は、改めて何度でも思い出さなければいけない。