貧困


ばたばた忙しい。一番だめーな感じの忙しさで、効率は悪く成果も芳しくなく、気分もすぐれない。少しでもまともにモノを考えようと思っても、コンディションとしては最低な感じ。


山県有朋が提唱した国家戦略に「主権線と利益線」というのがあるのだとの事。日本という国家を守り維持していくための最終防衛ライン、つまり国境にあたる線を「主権線」と呼ぶ。これを守る事で国体は維持されるのだが、それだけではだめで、国境周辺に広がっている隣接地域(たとえば朝鮮半島)に眼を向け、そこに何かしらの「脅威」が出来するような事態が生じたら、国家はただちにその事態に対して何らかの措置を施さねばならないし、そこが常に安定状態である事が確保されていなければならないのだという、そのような線を「利益線」と呼ぶ。この二重線を基本に編まれた国家戦略である。


僕はこの話に「貧困」の基本を感じる。「貧困」とは、もうこれ以上自分の輪郭が侵食されてしまうとまずい、という厳戒状態の事で、そのような意識下において、主権線とか利益線とか、そういういう「防衛」という概念もはじめて実効力をもつように思われる。


「貧困」とは、ただ与えられる事だけを望むような状態ではない。それは生命の危機であり、そのような状況である自分を冷静に認識せざるを得ない厳粛なひとときである。深い絶望とあきらめと、それでもまだ執念深くくすぶる激しい生への執着というか自己保存本能が剥き出しになった状態であって、そこに外部から愛とか親切とかが投げ込まれたとしても、おそらくほとんどまともには機能しない。


昨日観た映画「骨」で、若い父親が赤ちゃんを抱えたまま「この子にお恵みを」と道を行き交う人々に呼びかけて物乞いするという凄惨な場面があった。そこである女性(エドヴァルダ)が、彼にパンとミルクを買い与えるのだが、その親切と、それへの応答の、恐ろしいまでのすれ違い方はやはり相応にショックで、しかしショックであると同時に、そうだこれが現実なのだという、ほとんど苦痛を通り越してなにやらぼんやり甘くもあるような後味に包まれるのである。どれほど言葉が交わされてもどれほど体の接触が試みられても、他人はやはり常に他人である。エドヴァルダと若い父親の出会い(すれ違い)こそが、僕の知っている「貧困」というものの強烈な具現化だと思った。