作品/死


保坂和志「涙を流さなかった使徒の第一信」を読み返していて、人が死ぬ、というのは、その生物学的な死という事以外にも、もっとほかの何事かが起きていると考えることもできるのかもしれないという事をぼんやり考える。たとえばこの文章の中で保坂和志は「「個人出版をしたから小島信夫が倒れた。」と思っている。」と書いている。そして「私は「小説に書く」とか「本にする」ということに対して、一種迷信的な怖れを持っているのだ。」とも書いている。


それを読んでいてなんとなく考えたのは、人が死ぬ、というのは、誰かによって「あなたはもういいですよ」と言われたから、その人は死んだのではないか?という事のように思う。あるいは、その人を生につなぎ止めてあった、細い紐を、誰かが図らずも切った。しかし、その切ったという行為は、誰かのミスとか偶然とかではなく、最初からその人によって切られるべきものとして準備されていた。切られるのを待っている紐としてあった、というか…。しかしそれは「最初からそのように仕組まれている」という事では全然ない。そんな馬鹿馬鹿しい意味ではないのだが、そんな意味とどこが違うのかを今、上手くは説明できない。


同時に「小説なんてものは、〆切りがあるから書くんですよ。もし〆切りがなかったら、終わり無く、いつまでも書いてますよ」という言葉も思い出す。〆切りの外的な力を借りて、その小説を終わらせる、というのは、要するにその小説の生きている過程を一旦殺すことだろう。その生成過程を一旦、死に至らしめることだ。それによってようやく、小説は小説たりうる。というか、それがなければ小説は読者のもとには届かない。届くためには、一旦死ななければならない。


作品を体験する、というのはまさに、死者の声を聴く、という事なのだと思う。自分が作品を作るというのもまた、何度でも死ぬ、という事なのかもしれない、あるいは、何かを殺そうとすることなのかもしれない。というか、それくらいの気持ちがあるから、「発表」なんていう行為をするのだろう。単なる成果のお披露目で「発表」なんて、馬鹿馬鹿しい事は誰もやらないはずだ。そうではなくて、それは確実に何かの死であるのだし、何かを踏み越えようとする事でもある筈なのだ。