AutoPilot - 芸術/自殺/戦争


知っている場所を進み続けていて、そのままどこまでも進み続けると、やがて知らない場所に出る。でも大抵の場合は、進んでいって急に知らない場所に行き当たる訳ではなく、知ると知らないの間の曖昧な中間地帯が、必ずある。


しかしその後、知らない場所から、知っている場所に戻ってくるときは、「いきなり」知っている場所に戻るのだ。知っている事が徐々に色濃くなっていくのではなく、いくつかの情報が集約されて、それでいきなり「知っている」というモードになってしまう。


とはいえ、「知っている」に戻るときでも、厳密には知ると知らないの間の曖昧な中間地帯というものがきっとある筈なので、そのような場所へと進むときの、自らをどのようにコントロールするのかという判断において、ことに手動操縦から自動操縦に切り替えるタイミングについては、とくに注意しなければならない。


手動操縦は、今の自分が自分をコントロールしている事が、常に意識されながらの体験である。自身の身を守りながら、「知らない」を「知る」に変えるための試みである。手動操縦というのは、強い緊張や不安を伴う、操縦者の心身に対して負荷の高い行為だがそれが「知る」に変わっていく事自体が面白いし、操縦という行為自体の面白さも味わえる。


自動操縦は、今自分が自分の過去の記憶と慣性によってコントロールされている事を意識しながらの体験である。かつては手動で制御された一連の内容が、文明の力で再利用可能になったのを繰り返し利用しているのが、自動操縦である。整備された環境下において、操縦方法をあらかじめストックしておく操縦方法が実現可能になった。自動操縦では操縦という行為をほぼ意識しなくて済む。今われわれが普段、自分を操縦しているという感覚がほぼ無いのは、われわれの動作形式種別として、自動操縦がすでにはるか昔から初期設定として登録されているからである。


ところで「知らない道なのに、自動操縦してしまう」事も可能だと思う。それが芸術を作るという事なのかと思ったが、でもそれは自殺のようにも思えるし、戦争のようにも思える。無秩序というものに、いきなり文化的な力あるいは文化的意味を、躊躇無く一挙にぶつけてしまうような行為としての、芸術/自殺/戦争を貫いて疾走する自動操縦のドライブ。