蕎麦・百貨店・桜


例えばある蕎麦屋について、何か書こうとする。そのとき、その蕎麦屋について、この店はいいとか、この蕎麦はうまいとかまずいとか、そういう事を書くのだとする。しかしその場合、書こうとしていることはおそらく二重の何かで、その蕎麦屋や蕎麦から感じられた具体的な感触を描写的に相手に伝えたいという気持ちと、その蕎麦屋も他の蕎麦屋も含めた、この世に存在するすべての蕎麦屋が担っている歴史というか系譜というか、そういう遥かな何かと、今ここに私が経験した蕎麦屋から受けた具体的感触との距離というか、つながりの予感というか、何がしかのその、おおらかな流れのようなものも感じさせたいという気持ちがある、とする。結局、常に意識されるのは、後者の部分なのだが、しかし今ここに現れた蕎麦のうまさを描写するのは、この私でしかなく、この私は歴史や系譜から引き裂かれて孤立した存在でしかないという認識があるとき、文章はふたつに分裂する。


今ここで感じているこの蕎麦のうまさは、この私の主観的な感覚でしかないのだが、しかしこの蕎麦やあの蕎麦らが含まれる蕎麦の大いなる歴史、その系譜を私が私なりに意識するとき、それもまた私によってでしか認識できないのではないか、という事も思う。というか、そういう言い方をすると、歴史や系譜がまるで「正解」であるかのようになってしまうので、それは完全に間違った考え方なのだが、でも結局は「正解」がないのだから、この私が食べて、この私がうまいとかまずいとか、そういう話でしかないのだよなあ、と…そういういわば当たり前といえば当たり前の事を、今更のように思う。


唐突に全然関係の無い事を書くが、共感は感傷だけど、分析はそうじゃないみたいなものの言い方には反発を感じてしまう。というか、安易な共感や安易な感傷を安易に批判する言葉の安易さが一番嫌いだ。


さらに関係のないことを書くが、前に聴いた、大貫妙子のラジオ番組に保坂和志がゲストで出ていたときの話で「社会の内側にいる人たちはそれぞればらばらだけど社会の外側にいる人たちはつながってる」という話があって、その言葉はずっと忘れられなくて今でも事あるごとに思い出してしまう。先日百貨店に行って買い物をしているときも、やはりその言葉を思い出していた。というか、百貨店で買い物をする、というときに、この言葉は俄然、鋭さを増して思い出されるのだ。というか、百貨店で買い物をするときまさにぼくは、自分が社会の内側にいて、そして何ともつながっていない、という事を実感する。百貨店という場所に集まっているたくさんの人々と、陳列されているたくさんの商品と、買い物という行為が、何にもつながっておらず、ただひたすら、個人個人の小さな器に解消されていくという事の空虚さを感じる。そそれはそこに、具体的な感触だけがあって、歴史や系譜が感じられないという事からくる空虚さなのだろうか。そして、仮にそうだとしたら、歴史や系譜、とったようなそれは「社会の内側にいる人たち」が失ってしまった何かで「社会の外側にいる人たち」にはまだ感じられるような、まだ手の届くような類のものなのだろうか。そんな風にも思う。


物凄い強風で、電車が20分くらい運転見合わせになったおかげで帰りが遅くなった。風のせいで盛大に、取り返しの着かないくらいの勢いで右に左に揺すぶられているもう六分咲きくらいの桜の木を見ていて、今年初めて、ああ桜って綺麗だな、と思った。やっぱ少し呑んでいて軽く酔っていて、軽く不機嫌な気分で、黙々と歩を進めて家路を急いでいるようなときに、ふと上を見上げると、ものすごい勢いで夜の桜が真上から覆いかぶさるようにして咲いている事に気づいて思わずはっとするような瞬間だけは、ああ桜って綺麗だな、と思いますね。たぶん世間の人も、もういい加減桜とか見飽きている筈なのに、でもやっぱり忘れた頃にふと目の前の桜に気づいて、うわ、やっぱり綺麗だなーとか思っているのだろう、人々のそういう思いの積み重なりの歴史が、桜の歴史であり、桜の価値なのだろう。