見る


柴崎友香の「寝ても覚めても」を読了した。自分は今まで、実は柴崎友香の作品をあまりよくわかっていないというか、決して良い読者ではないなあという自覚をもっていたのだが、でもそれはともかく、本作はさすがに、ものすごいちからで右に左に引きずり回されるような思いを味わった。


丸の内線に乗って、銀座駅で降りた。銀座一丁目周辺にいくなら、A13出口に向かう。地下道をA13出口までかなりの距離を歩いた。東京メトロの各改札やソニービル三越松屋へとつながってる迷路のような長い長い地下道をたくさんの人々が行き交う。ものすごくたくさんの人。ひっきりなしに人が移動し、すれ違ったり遠ざかったりしている。僕は、そして妻もそうらしいが、普段外を歩いているとき、大抵は視線を下に向けていて、周囲の人の顔など全然見ていない。だから外で人込みの中から知り合いを発見するような事もあまりないし、誰かとばったり出会うなどという経験もほとんどないし、偶然有名人を見かけたりするような事も少ない。本当なら、もう少し視線を上げて「いま何が起きてるのか」をそれなりに意識していれば、もっと何か色々な「出来事」に遭遇することもあるのかもしれない。実は今までもたくさんの人や「出来事」が、気づかないうちに僕たちの前を通り過ぎていったのかもしれない。


大体、僕も妻も、ふだん外を歩きながら、視線を上げて、行き交う人々を見て、すれ違う人の顔を見る、という事を、今まではあまり、やってはいけない事、許されない事、好ましくない行為、だと思ってきた、というか、それはある意味、セキュリティ上心配、というか、ある種の怯えをもって、そうしてきたのだと思うが、でももしかするとそれはそうではないのかもしれない。見るのは嫌だ、見られるのも嫌だ、というフレームをあえて破ってみるのも面白いのかもしれないとも思った。


柴崎友香的世界を脳内再現…なのか、よくわからないが、たまたますれ違う人の顔を見たり、電車で向かい合った人の顔を見たり、というのを、今日は意図的に、ほぼ生まれてはじめてと言っても過言ではないくらいだが、あえてやってみた。こちらに向かって歩いてくる人の顔を一々見る。あまり不審に思われない程度に、見る。目が合う事もあるし、合わない事もある。…しかし「なんだかこりゃあ、妙に悪いことをやってるような気分だなあ。へへへ」と藤竜也風に云いたくなってしまうような気分にもなったのだが、でも人の顔を見るのはものすごく面白かった。なにしろ、ふだん人の顔なんてほとんど見てないというのがよくわかる。たぶん大体、ちらっとコンマ一秒みるとかそれくらいだろう。それだけではまったくわからないような「顔」というものが、あえて一秒か二秒くらい、ちゃんと見てみると、とんでもなく、たくさんのことがわかるのだ。いや、正確に言うと「わかる」のではなくて、そこに大量に感情が流れ込む余地ができるのだ。


はじめのコンマ一秒で「こういう感じの人」と思った所感の、ある種の冷たいよそ行きな、自己防衛本能の上に描かれた脅威としての他者、みたいなイメージから、続けて一秒か二秒みる事で、いきなり「こういう感じの人」の奥行きや膨らみが何十倍にもなる。大げさに言うと、ほとんど他人じゃないような気持ちにすらなる。その一秒か二秒で、その相手がどんな人なのか、ほぼ完全に想像できてしまい、そこに感情がどっと流れ込んでくるのだ。当然だがこれはもちろん、客観的根拠のない、僕の個人的な妄想に過ぎないのだが、根拠などどうでもよくて、一番肝心なのは、そこにおどろくべき感情の生成がある、ということなのだ。僕は街中で次々とあらわれては消えていく見知らぬ人々ひとりひとりに、これほど感情移入した経験はない。もしその人が困っていたら友達が困っているときみたいに、かなり普通に助けるだろう。そう思わせるだけの感情がわくのだ。コンマ一秒から一秒にかけて、驚くべき手のひら返しというか軽薄というか、なんとも現金な、気分の変わりようである。しかし、見るということがもたらす効果とは本来そういうものなのだ。こういうのが可能だったんだと思って、その発見に感動さえした。こうなったら、普段の日常の中でも、他人の顔や初対面の顔を、一秒でも二秒でも五秒でも十秒でも、許される限り見たほうが良い。それはすごく、他者への想像力を宿す余地を自分の中に作り出すことができるのだとわかった。


色々な人を見ているとなかには、見られる、という事に徹頭徹尾意識的な人というのはいて、こういう人を二秒や三秒見るというのは難しく、そういう人に対してはさすがに目を逸らすしかないのだが、思えば僕も、ひたすら下を向き続けているというのは、全拒否という姿勢でいる意味では、見られるモード全開な人と変わらなかったかもしれない。要するに余裕がない。あらかじめ決めた枠でしか想像を許さないという頑なさ。そういうのは間違っていた。人間のこころを狭くするものである。そういうのは良くない。これからはもっと見る人でなければいけないと思った。第一、自由に見るほうがずっと楽しい。