時はゆく


やれば何でもそこそこ、やれてしまう。そこがあいつの一番ダメなところなのだ。種別を問わず、何でもそこそこやれるなんていうのが、一番つまらないのだ。


大体、取り組むべきことがあって、人間がいて、人間が取り組んで、結果それが出来たか?出来ないか?なんていうことは、それをご大層な問題にしたがっているのは人間だけで、そんなのは人間の都合に過ぎないだろう?要するに成果がどうとか、そういう人間界のしきたりに過ぎないだろう?だから何でもそこそこやれてしまうなんていうのは、人間界でしか通用しないのよ。人間界でしか仕事する気のないやつだけが、そういうやり方をするのよ。


人間界のしきたりで仕事されちゃ困るんだよ。出来たか、出来なかったか、なんてどっちでもいいよ。鍾乳洞のつらら石は、それができたかできなかったかの只中の状態で、今そこにあるだろ?誰もできなかったつらら石のことを想像しないだろ?いやもし想像することがあったとしたら、その想像の根拠になるのは今、目の前にあるつらら石からでしかないだろ?だからその時点でそれはもう、つらら石の立場から考えるしかないのだろ?我々の中の誰かが、つらら石をつくり、誰かが、つくらないというのは、それは悲劇でも喜劇でもないことで、いわんや成果とかそういう話とは全然違うんだよ。


しかしやはり、人生はなおも短くて、孤独で、予想もつかず、人を安心させずには置かない厄介なものだ。何が共鳴し何が反射するのかもさっぱりわからない。


仕事のことでどうしても話しておきたいことがあって、正月から出かける。相手先の最寄り駅まで行って、電話を入れた。


相手は驚きの笑顔で僕を家まで迎え入れてくれた。新年のご挨拶。まさに闖入者の風情である。あけましておめでとうございます。本年も宜しくお願い申し上げます。ハッピーニューイヤー、わたしたちの10年代を素晴らしい時代にしましょうよ。畳に正座してご家族の皆様方にお辞儀。


なにしろ真剣にやらないといけない。真剣のふりして、身体半分しか身入れしてない状態でもっともらしく振舞ってもダメ。というかそれでも現実のある位相ではまあ、そこそこ通用してしまうのだけれど、でもさらに奥まで行って自分でも手応えがほしいなら、もっと真剣じゃなきゃダメ。結局今まで、これまで徹底的に忌み嫌っていた、とにかく一番避けたかった場所に、なぜか自ら向かうみたいなパターンに落ち込まなきゃダメ。…で、そういうことを、まあいわゆるぼんやりとした展望みたいに話して、自分の今年の仕上がりのアピールとしてきた。あとはどう料理しようが、呼ばれようがほかされようがどっちでもええわと思って、そのことだけ伝えた。


今年は十二月の後半から、朝は毎朝が元日の朝だった。毎日が新年の快晴が続いた。夜の冷え込みはまださほどでもない。毎晩帰宅は遅い。今日は業務の最終日で、あちらこちらで良いお年をのご挨拶がきこえる。数日後にまた会うのにね。


最初はあまり良いとも思わなかったものを、もしかしたらあれはすごく良いのかもしれないと、そんな風に思い直し始めるまでに、約一ヶ月かかっている。一ヶ月くらい経たないとぴんとこないということがある。その一ヶ月間かけた旅行の、滞在中の出来事の淡さ、取り返しのつかなさを思う。でも始終そんな旅に出ては帰っているのが、現実というものだ。旅が現実だ。現実が既に旅の記憶だ。