深さ、ごく浅い


いつものなんでもない空間で、いつもの見慣れたメンバーの中で、自分も全然どうでもいい話しかしてなかったのに、なぜか、そのときのやり取りというか、その場で自分の話したこと、相手の反応、場の雰囲気、それらの余韻を、その時に限って、何年も経った今でも、鮮明に記憶に残っているっような、そういうことはよくある。もし今、それを再現してみろといわれたら、僕はおそらく、そのときに自分の話したことや、相手の話したことを、一々文字に起こして、全体の流れにまとめて書き付けることができる。そのとき僕が何をもっともよりよく伝わるようにしたいかというと、話の内容ではなくそのときの言い方というか、ニュアンスとか雰囲気とか空気とか、そういう事になるのかもしれない。


ニュアンス、雰囲気、空気という言葉も便利な言葉で、でもその実何を言ってるのかよくわからない言葉だ。共通の幽霊というか、共有できる幽霊のようなものか。もっとも身近で親しみやすい幽霊。


言い方というのは、お互いが目の前の幽霊を前提に話すときの語法というか作法なので、そのとき幽霊を取り去ってしまったときに、言い方だけが取り残される。たぶんどうでもいい話がいつまでも記憶に残ってしまうときというのは、この幽霊が消去した後に、言い方だけが独自で妙な場への踏みとどまりを示したときに起こる現象なのではないか。


そういう言い方だけが連なっている感触というものがあるのではないかと思っている。


後で振り返って、言い方の判断があとから糾弾される事はよくある。「おまえそんな言い方ないだろう?」と言われるとき。「おまえそんな言い方ないだろう?」は、お前がその内容にその言葉を当てはめた事が、俺には納得いかないという意味か。内容自体は、お互い正確に共有しているし理解に至っているのだ。だからこそ、その言葉にあてはめるかよ。それはお前の意志だとしたら酷いじゃねぇか。そういう風に。


言い方は後から、どうしても反芻されてしまう。振り返ってお互いのやったことをリプレイする。そのときの身振り手振り、パフォーマンスの問題というのはある。


パフォーマンスって言葉を使った瞬間に、問題が一回り小さくなってショボくなるという問題もある。パフォーマンスって言葉は良くない。それは報告書を書く事が前提の言葉だ。


おっと、また地震だ。