取り替え子


大江健三郎「取り替え子」読み終わる。…これはまさに異常。しかし、感動的としか言いようがない。読んでいて、今の自分が、物語のどこかで誰かの声を聞きながら、必死にしがみついて、すさまじいスピードで揺らぎの中に眩暈と反転を繰り返しながら、誰かの見たはずの、かつての誰かもそのように感じたはずの、その手がかりと予感に向けて、森の奥の、想像を絶する空間の深さを、たしかな速度と目くるめく鮮烈さで、文字に刻まれた過去へと遡行していく。後半はほとんど息詰まるような思いのなかに、少年の時代の記憶のなかの不安だの焦燥感だの様々な、色々なものの渾然となった激しくも甘美な幸福さにまみれて、ただただ恍惚としてしまう。…そして千樫による終章の、このうえない美しさ。美しさというか…なんかよくわからない。しかしこれはもう…最初からページをぱらぱらとめくって読み返していると、一々、一行一行、単語ひとつひとつに立ち止まってしまう。。ことに下記の箇所には感動させられたので引用する。あらためて胸に秘めたい。沈黙と恐怖に震える一夜にさえ意味が、かつてマグダラのマリヤがそうであったように、あるのだと。


(マルコ書で、十字架から降ろされたイエスの亡骸に香油を塗りに行おうとした女たちが、蓋が空いた墓石を見、天使に会い、イエスの復活をペトロに伝えよと命じられるが、彼女らは恐ろしくて逃げ出してしまうという箇所の話を聞いている場面)

古義人がそのように続けるのを、千樫はなかば放心して聞いていた。千樫は夢想していたのだった。これらの女たちは、イエスの活動の初期からかれのもとにあって、彼女ら自身、それぞれに深刻な試練を受けてきた。イエスが十字架につけられるのを、男の弟子たちが逃げ去った後も終始見守っていたほど、腹の坐った人たちなのだ。

 しかも、その女たちが逃げ出して、怯えて黙ったままだったことに、どうして意味がないだろうか?天使の言葉が弟子につたえられなかったという否定的な意味でのみ、福音書のしめくくりに書きつけてある、と受けとめていいだろうか?

 もし、天使はああいったのであるけれど、イエスがガラリヤで弟子たちに会うということがなかったのであるなら、そして伝言をつたえたそこなった女たちの落度でそうなったのであったとしたなら、彼女たちの沈黙は福音書に書きとめられて、永く非難されねばならなかっただろう。しかしイエスは、女たちの沈黙が天使の言葉を空しくしても、甦った自分を弟子たちにしっかりと現わしたではないか?

 それに続けて、千樫は考えたのだ。私はあの暗い夜、二日も帰ってこない兄を待ちながら怖れていた。いったん兄と友達が帰って来ると、さらにその憐れな様子に震え上がり、正気を失ってしまいそうだった。そして、誰にもひとことも言わなかった。恐ろしかったからである……

 そして、それだけだ、恐ろしいままだ…… しかし、私のなかにいまもあの真暗な夜明け前の恐しさが実在していること、それ自体に意味があるのではないか?だからといって積極的なものが死んだ兄や夫に、また私にあたえられるのではないけれど、あの真暗な夜がなかったと同じになるのでないことに、どうして意味がないだろうか?