鳴き声


空のペットボトルはつぶして紙のように丸めることができるので、手でつぶしてみたら、ものすごい音がして驚愕する。いきなり、出し抜けに鳴った。まるで鳴き声のようだ。隣近所に聴こえるのではないかと思った。音が大きい。まるで楽器だ。高らかに鳴る。力を入れるたびに、ものすごい勢いで音が鳴る。やってもやっても鳴る。思わず録音したくなる。つぶし終わって、さらに力を加えて丸めてみる。やはりものすごい音。苦痛の呻き声のよう。断末魔の絶叫、拷問の真っ最中に、なりふり構わず泣き喚くが如くだ。しかも、力を加えて丸めても、手を放すとしだいにゆっくりと元に戻る。自分を憐れむかのように情けなく呻きながら、じつに恨めしそうな仕草で、だらしなく元の形に戻ろうとして、その途中で中途半端で醜悪な形状のまま静止する。なおかつまだ、こときれておらず、あたかも命乞いをするかのようだ。それを再び抑え付けて、憤怒の力を加え、あらためて丸め直す。両手を使って、上から容赦なく体重を乗せる。手の下で、喉を潰したような風前の灯火のようなか弱い声の泣き声が再び聴こえる。手を放すとまた、拘束の力がほどけたかのように、再びだらだらと元の形状に戻る素振りを見せる。すでに虫の息であるのに、その皺目の奥から軋みの音が、ふいごから送り出されたような微かな息遣いでいつまでも鳴りつづけている。しばらく力を加え続けた後、これでよかろうと思い、マンション地下のゴミ集積場に持って行く。集積場に設置されている、網上げられたペットボトル廃棄専用籠の中に、つぶしたペットボトルを放り込む。ところが投げ入れたら、籠の口にあたって跳ね返って、地面のバウンドして足元に戻ってきて、汚らしいエビが反ったような格好で横たわっている。それを拾い上げて、もう一度、籠の傍まで行って、籠の中に投げ入れた。ペットボトルは、籠の中に入った。七割方満杯になった籠の中で、あきらめたように静止している。その籠の下のあたりを足蹴にした。爪先で、何度か蹴りを入れて、すると籠は横に倒れて、あたりにペットボトルが錯乱した。ジュースのような甘い香りがかすかに漂い、飛沫のようなものが顔にかかった。真横に倒れた籠を、さらに踏み付けた。靴の裏で何度か、念入りに踏み付け続けた。するとマンションの管理会社の担当員がこちらに向かって走ってきた。その管理会社の担当員に僕は掃除を命じられて、さらに後でかなりきつく叱られた。

編隊


五人の女子高生が、五台の自転車で、お互い寄り集まって、編隊を組んだような状態で、ふらふらと、ゆっくりと走っている。女子高生たちはお喋りに夢中で、たぶん学校の教室や廊下で喋ってるのと同じように喋りあっているので、自転車のハンドルを持つ両手は、がくがくと左右に小刻みに動かして、ペダルを慎重に踏んでは戻し、そんな感じで、五人がお互いの自転車同士、ぶつかったり群れから大きく外れたりしないように、間隔を適度に空けていられるように調整しながら、ゆっくりした速度で、ふらふらと走り続ける。五人とも、自転車の前かごには、鞄や大きな買い物袋や何かが、色々と一杯入っている。荷物一杯の自転車が五台、寄り集まってゆっくり走っているので、その進行方向から来る他の歩行者や自転車は彼女らを大きく迂回して避けて行く。車道を走る車も、おそるおそる徐行気味に追い抜いていく。やがて、五人の女子高生による五台の自転車編隊は公園の入口にさしかかる。広場のようになって空間にゆとりができて、自転車同士の間隔もやや広がるかと思われたが、予想に反して編隊の隊列形態は変わらず、そのまま進み続ける。と思ったら、先頭の自転車一台の前輪の向きが、くるっとこちらに向いた。と思ったら残りの全台も同じように、前輪がくるりとこちらを、すなわち今、この僕の居る方角へと向きを変えた。相変わらずよろよろと低速で不安定な様子のまま、五台揃っての旋回を完了して、自転車の編隊はいきなり僕の方向に向かって近づいてきた。僕は驚き、どこへ避けるかと思って周囲を見回した。運の悪いことに丁度、僕の居る場所だけ、左右に花壇があって道幅が狭いのである。脇に避けるのは難しい。だとすると、あの編隊の真ん中に、僕が侵入していく可能性が高い。それは、かなり危ない。彼女達は僕を通り抜けさせるたけに、それぞれ車間を開けてくれるだろうか。開けるといってももはやここまで近づくと限界がある。それに道幅がない。あの前かごに一杯入った荷物の一部が、僕と接触するかもしれない。ふらふらと、小刻みに動かされて何度も地面を踏みしだいているような自転車の前輪が、僕の足を踏むかもしれない。ハンドルの下に突き出たブレーキレバーの突起が、僕のコートの袖の部分に引っ掛かって、そのまま腕ごと持って行かれてしまう。ボーリングで、11ポンドのボールを選んだときの、思いのほか指の穴が小さくて、一旦、三本の指を挿入したら、なかなか抜けず、そのまま僕が投球する番になって、仕方がないので、指の抜けないままのボールを、自分の顔の前に持ってきて、その格好のまま真剣に遠くのピンを見据える。そのままレーンに向かって前進する。同時に腕を下ろし、停止線の手前くらいで腕の勢いを最大になるよう振り下ろして行き、停止線と踏み出した足の爪先が設置するかしないかのタイミングで振り下ろされた腕が体より前にいって、ボールが手から離れて、鈍い音を立てながら横回転の動きを球体の表面に浮かべながら、ボールがレーンを転がっていき、やがてこちらの出来事とは別世界のように、ピンがボールにあたって弾けて倒れる音が響きわたる。白いアームのようなものが上から降りてきて、倒れたピンを一気に片付ける。それは想像のイメージで、実際は、せっかく腕を思い切り振り下ろしたのに、指からボールが抜けなくて、そのまま腕がボールの重みに引っ張られたようになって、体ごともっていかれそうになり、かろうじて踏みとどまったかと思ったら、それでようやくボールが指から抜けて、一瞬ボールは中空に浮かび、そのまま、ピカピカに磨かれた自分の足元のレーン上に、すさまじい音を立てて垂直に落下した。落下したボールは、力なくよろよろと、右端のガーターゾーンに転がっていって、後は溝にしっかりと嵌ったまま、のろのろといつまでも溝の上を転がって行った。そのときおそらく僕の鞄は、丁度すれ違っているときに、彼女の肩か顔に当たってしまい、彼女は自転車から派手に落馬した。もんどりうって転んだ。背中から地面に落ちたと言って良い。一瞬呼吸が止まる。咳も出ない。しかも落ちたとき、ポケットからはみ出していたウォークマンのイヤホンのケーブルが自転車に引っ掛かったようで、それに引き摺られるかたちで、砂埃を濛々と巻き上げながら彼女は市中引き回しの刑みたいに、両手をバンザイの格好に上げたまま、どこまでも引き摺られていく。僕は咄嗟の判断で腕を伸ばし、主のいなくなった自転車のブレーキレバーを片手で掴み、腕一本の力で体全体を浮かばせて車体に密着させ、しがみつくようにして進行方向とは逆向きにその自転車に馬乗りの状態で乗り込む。引っ掛かっていたイヤホンのケーブルを見つけて、踝のところに装着されたナイフを出してそれを切った。泥だらけになった彼女が、呆然とした表情で遠ざかっていく自分の自転車を見つめる。僕はそのまま、自転車のサドルの上に立って、勢いをつけて隣の自転車に飛び移って、さらに隣の自転車にも飛び移って、ようやく先頭を走っている幌馬車のすぐ後ろまでたどり着いて、幌の柱にしがみつくために、意を決して、再び思い切りジャンプする。

制御


五人の女子高生が、五台の自転車に乗って走っている。前を走る二台が速度を緩めたので、後ろの三台も速度を緩めて、車間距離を保つ。ハンドルを小刻みに動かしてバランスを取る。前輪のタイヤが何度も地面を踏みしだいて、ゴムの表面が砂利にこすれる。ペダル部分の滑車が空回りする音がする。ペダルに一瞬だけ力が加わってそのたびにチェーンが一瞬たわみを失ってチェーンカバーを叩く。チェーンが多角形のかたちで歯車の周囲に巻き付いてゆるやかに歯車を回す。金属の薄い鉄板とワイヤーとのぶつかり合う音。惰性でホイールが回転している間の、空回りしている回転軸の中の歯止めがかちかちと鳴る音。五人の女子高生の足元で、五台の自転車のそれぞれの駆動部分の金属同士がそれぞれお互いを打ち付けあう音が五台の各部位から盛大に鳴り響いて、五人の女子高生がそれを、それぞれの両足で挟みつけながら、五台の自転車にまたがった五人の女子高生が、それぞれサドルに固定された身体の過重位置をずらしたり移動させたりしながら、ふいにバランスを失いそうになるのを、五人それぞれが小刻みなハンドル操作で耐える。五台のうち一台の自転車の倒れようとする方と反対の方向へ自分の身体を投げ出しかねないところまで思い切り捻る。五台のうちそれぞれのバランスが、お互いに支えあうことなく各自の努力によって自律的に制御されている。したがって五台の編成形態と距離もそれぞれの意志によって成り立っている。重力の下で、バランスの按配に対する妥協点を図る努力が五人によってめいめいに試みられている。五台の自転車の各前かごには、女子高生の所持品らしい荷物がそれぞれいっぱい入っている。前かごの装着された前輪部分の重量はかなり増加していて、ハンドルを支えるにも片手だけでは辛い。それでも五人の女子高生はハンドルを持つ手が時折は片手だけになるときがあって、そうすると前輪は重さでやや右側へ傾こうとするのを手で抑える。抑えることでむしろ適切な力の按配を見失って、今度は左へ傾こうとする自転車を立て直すために、さらにそれを抑えて、また逆に右へ傾こうとするなどして、じょじょに制御不能になって、車体が大きく揺らぐ。五台の自転車がそれぞれ、場合によっては大きく揺らいで傾く。女子高生があわてて両手でハンドルを抑えて、そこを踏み止まる。やはりそこで耐える。自転車は、かろうじてまた進むべき方向へ進む。たどたどしくもゆっくりと蛇行しながら進む。そのように五台の自転車が互いに、ぶつかりもせず離れもせず、適度に間隔を空けながら、五人の女子高生のハンドルを持つ手とペダルを踏む足によって、きわめて低速でふらふらと不安定によろめきながら走る。

五人の女子高生


五人の女子高生が、自転車でゆっくりと走ってくる、と書いたら、もしかすると、一台の自転車に五人の女子高生が乗っているように思われやしないかと、不安なのだ。女子高生が乗る五台の自転車が、ゆっくりと走ってくる、と書いても、やはり不安で、女子高生が、五台の自転車をひとつに束ねて、それにまたがっているような、ものすごい情景を想像されやしないかと思ってしまう。だからくどいのは承知で、五人の女子高生が、五台の自転車に乗ってゆっくりと走ってくる、と書くが、それでも考えようによっては、全体として、総勢二十五人の女子高生が、合計百二十五台もの、おびただしい数の自転車の上に乗っているようなイメージにつながってしまうことを想像する。単に女子高生が自転車に乗っていて、それが五台連なって走っているということを言いたいだけなのだが、これがじつに難しい。ところで今さりげなく「単に…言いたいだけ…」と説明した内容だって、これももちろんおかしい。この書き方なら、さらっと伝わるだなんて、最初から思ってはいない。最初から承知だがこれだとまるで、女子高生の乗っている自転車が、五台分連なって走っているかのように、思われてしまうかもしれない。五人の女子高生が、それぞれ自転車に乗って、皆で一緒に走っている、この書き方では?いや、これも、五人が同じ場所にいる感じがしなくて駄目な気がする。では、女子高生が、自転車に乗っている。三浦さんと池野さんと山口さんが、並んで走っている。青山さんと先崎さんが、そのすぐ後ろを走っている。ためしに女子高生を登場人物化してみたが、これだとやはり、どうしても登場人物であることの方が強く感じられてしまい、女子高生の乗っている自転車が、五台分連なって走っている感じが、前に出てこないから駄目だろう。もう一度やらせてもらいたい。自転車に乗った三浦さんと池野さんと山口さんと、そのすぐ後ろに青山さんと先崎さんが走っていく。五人は、仲の良い友達である。これも苦しいとは思う。かつ、自転車が、五台分連なって走っている感じを出したいためだけに、五人を、仲の良い友達に仕立て上げなければならないという点で酷いと思われる向きもあろう。最後に、駄目で元々なのでもう一つ試したい。自転車で五人が走っていく。三浦さんと池野さんと山口さんと、そのすぐ後ろに青山さんと先崎さん。ゆっくりとペダルを漕いで、お互いに顔を見合わせてお喋りしながら、五人の乗った自転車がゆっくりと移動していく。これも、やはり、女子高生が対話している情景を挿入することで、自転車が五台分、連なっていることの証拠的な裏づけにしようとしている感じだ。…やはり上手く行かないが、実際のところ、現実としてはどうだったのか?現実に起こったことを、ありのままに書けば良いだけなのに、うまく書けない。実際は、五人の女子高生が、自転車でゆっくりと走ってきて、それを見ていたら、五台の自転車が、いっせいに僕の方へ向きを変えて、みるみるうちに、こちらに近づいてきたのだ。そのことを書きたいのだが。

果実


桜が、満開というか、凝縮と堆積、隆起の様相を呈している。視界のほとんどが白く吹っ飛んでしまう。花の形よりも、花の色の方が強くなって、色だけが浮かんだまま前方に砕け散っている。空間のあちこちに飛沫を迸らせつつ、あちらこちらに弾けつつ、ドリッピングされた絵の具のように、その色の箇所だけ、奥行きをまったく無くしてしまって、しかもこれだけ満開だと、奥行きのない色そのものに、空間とは無関係な隆起が感じられるというか、色であるはずなのに、その奥から違うものがあらわれるというか、形に与えられたはずの色が、形を喰い、凌駕して迸り、しかし色それ自体の成長にともなう痛みの痕跡のような隆起というか、やはり形跡が残されるというのか。現時点ではまだ、地面にもほとんど花弁が落ちてないことが、今現在の、桜の花がもつ力と硬さを感じさせたりもする。たとえ木を揺すっても何も落ちてこないほどの強さで咲いている。まるで果実のような、真っ白で固い葡萄の房のような。


 ほとんど家の中で過ごす。こんなに天気がいいのに、ずっと家の中にいるなんてどうかとも思うが。まあ、何もすることがなく、手持ち無沙汰のままだらだらするのも、悪くないものだ。外が快晴で、散歩するだけでも良かったのかもしれないけど、でもまあ、ずっと引きこもってました、なんだかつまらない、何となく不機嫌な、いらいらした気分で、明るい午前中が、午後になり、夕方になり、時間が、ただ無駄に過ぎ去るばかり。機嫌が悪いんじゃなくて、調子が悪いの。とかテレビが言ってる。まあ、そんな一日だったとしても、それはそれで、良いではないか。僕はさほど悪くないと思うよ。これはこれで、春らしい休みの一日。

 たまに、うとうとした。谷崎の武州公秘話を読んだ。ばかばかしいなあと思って、たまに笑った。先週のウィークデイは、食後に薬を飲まなければいけなかったので、酒はほとんど飲まず、蜜柑を食べたり、お茶を飲んでいた。金曜日は飲み会だったので、最初の一杯だけ飲んだけど、あとはウーロン茶を飲んでいた。飲み会でそんなことをするのは、生まれてはじめてのこと。

 薬は、翌日の土曜朝までで、ひとまず終わりなので、その後でワインを買ってきて、夕方になったので飲んだら、これが痺れるような旨さ。たまに飲むのが、旨いということか。煙草もそうだけど、のべつまくなし摂取し続けてるのは良くないということか。

 今日もワインを買う。昨日ほど旨いと思わない。生のタケノコが売っていたので買って、ゆがいて、塩で食べた。これは、おどろくべき旨さだった。素晴らしい香り。おいしいものだなあタケノコ。風呂から出て、デコポンを剥く。これもすごいいい香り。甘味と酸味をいちばん程好く混ぜ合わせたような、胃の底まで届きそうな、ちょっと自然のものとは思えないような香り。

send


今何処?

行くね

京急蒲田 [ 11分 ]
京浜急行空港線(急行) [羽田空港行き]

△07:32着 羽田空港

私は仕事中に首から肩甲骨あたりを痛めたらしく

今日は遅いの?

以前に行った店はどうですか?(急な階段の2階の店)
場所がなんとなくしか覚えていないけど。

向かってます
8時過ぎには

今神保町ですが眠くなってきたので帰りますヽ(´◇`)ノ

それくらい、するのは当たり前よ。上司の知り合いなんですから。

先ほど岐阜羽島につきまして今チェックインしました!

コノスルオーガニックソービニョンブラン買った

いつでも!!明日でも! <゜)))彡(夕方まで(笑))

帰りますー。

百年


 昨晩は友人と横浜で飲む。久々にそれなりの量飲酒した。二軒目に行った立ち飲みがなかなか良かった。立ち飲み系の店は三年前くらいまではしょっちゅう行ってたのに、最近はなぜかぴたっと行かなくなってしまった。ああいう、店の中と外がはっきり分かれてない場所で適当に壁とかに寄りかかって、外の喧騒や匂いに触れながら酒を飲んでるのは楽しいものだ。十一時半くらいに横浜を出て、家の最寄り駅に到着したのが午前一時半過ぎ。電車が多少遅延したからだが、しかしそんな時間まで電車が動いていることがすごい。雨は強く降っているがまったく寒くはない。雨に濡れて帰った。

 翌日は驚くほど肌寒かった。雨は昨日からやむことなく降り続いている。風もあるようだ。吉祥寺へ。百年の、西川アサキ×古谷利裕トークイベントに行く。西川アサキ「魂と体、脳」はまだ第二部に入ったばかりのところまでしか読めてないのに今日になってしまった。しかしこのイベントは面白かった。会場全体が覚醒的な熱気に満ちていたように感じた。考えを徹底的に突き詰めていくことの迫力とは何なのだろうかと思う。話された内容や雰囲気に興奮したし、自分という人間の半端さというかパワーの足りなさを思ってややヘコみもする。まずはとにかく「魂と体、脳」の続きを読まなければと思った。

泳ぐ


カロリー摂取量を控えめにして、脂肪分や炭水化物も控えて、プリン体含有食品も、糖分も、アルコールもなるべく控えめにして、この一回限りの生をなるべく永く持ちこたえなければならない。いつかは朽ちる。この船も永久に浮かんでいられるわけではない。いつかは水が入ってくる。浸水して、水にのまれて、沈む日がくる。その日がくるまでは、できるだけ、各部を丁寧に手入れしないといけない。海の広がりの、胸が苦しくなるほどの広がりが、目の前に広がっていて、一角に二隻の船が浮かんでいる。それが、どことなく滑稽に見える。ばかだなあ。あれはなんで、ああやって、平然と浮かんでいるのか。水の上に浮かんで、静止している。波に揺られてもいない。濃い青緑色の海の上に、まるで貼り付けた厚紙のように、その場に船の形で、じっとしている。宙に浮かんでいるつもりなのか。子供が作った、ちゃちな模型みたいな、いくらなんでも、馬鹿馬鹿しいじゃないか。あそこで、冗談みたいに、ああして、乗客を乗せてゆったりと停泊しているような、澄ました態度でじっとしていて、いったいこれから、何をするつもりなのか。そこに水面のあることを、さっきからひたすら示そうとしているとでもいうのか。桜もすっかり散ってしまって、道は落ちた花弁でほぼ真っ白で、桜のほかにも、ユキヤナギも白い花を地面に盛大に落としている。小川のほとりのユキヤナギがいっせいに花弁を川に撒き散らしていて、おかげで川面が花弁であらかた真っ白になっていて、岸辺や水面から飛び出した小石の周りに白い花の集積がまるで隈取りされたように溜まっていて、小川の流れが白いネオンでデコレーションされたようになっていて、しかしそんなことは、どうでもいい。十年ぶりとまではいかないが、でも少なくとも七年か八年ぶりくらいで泳いだ。かつて、小児喘息やらアレルギーやらを患ったことのある、カンボジア難民のように痩せた子供が、体力を養うために、当時は水泳が奨励されていて、僕も小学生の頃から屋内の水泳施設に通い始めて、その後、中学を経て高校2年の半ばまでは、部活動で水泳をやっていたせいもあり、今でも、船のように浮かんでいることもできるし、手足を使って泳ぐこともできる。競泳選手としての能力はなかったため、タイムアタックにもレースにも充分な成果を上げることはできなかったが、今でも泳ぐことだけはでき、泳ぐというより、浮かんで進む、ということか。ひとかきして、ひとけりして、伸びて、再度ひとかきして、ひとけりする。それで、波が頭から左右二つに分かれて何重にも重なり合って波紋を広げてやがて岸辺へ到達する。波をかき分けて進む。進むたびに水が、ぐっと後ろの方へ流れ去る。白い花弁が洗濯機に巻き込まれたようにくるくると渦を巻く。今日は久々に今、泳いでいると思った。ずるずると、いつまでも泳いでいることができた。ゴーグルが顔のかたちに合わず、視界が激しく曇った。カロリー消費を促すために、少しペースを速めて泳いだ。主に負荷が、肩から胸にかけて懸かっているようだった。次第に、低い温度で燃えるような疲労が、体内にこもりはじめた。ついに何往復したかわからなくなり、時計が二十分ほど経過した。脂肪分解酵素リパーゼが働き始めていた。プールから上がって、おどおどとした態度で慌てて着替えた。帰ってから鏡を見たら右目だけがぎょっとするほど赤く充血していた。

見ていた


こんなことなら、早く寝てしまった方が良かった。やれやれ、もうこんな時間。と、嘆きながらも、こうして書く気になった。これだけでずいぶん違う。お後がよろしいようで。帰りしなにそう言い残した。ようやく一日に、かすかなまとまりが感じられる思いだった。あたかも最初から、ここへたどり着くことを決めていたかのような振る舞いだった。よせよ人が悪い。そう言って思わず、相好を崩した。おどけた様子で近づいてきたその小脇を肘で小突いた。白い歯を剥き出しにして大笑いしながら、ふたつの目だけ大きく見開いて、じっとこちらを見ていた。

実習


このフォルダパスを指定して、リターンすると、あらかじめ30MB分の容量が確保されます。今、既にもうキャプチャが始まっているんですけど、でもこれ、Xキーで終了するんですけど、終了すると、見ていただくとわかるように、ほら、今サイズが122KBですね。さっきから止めるまでの十秒かそこらの時間だけ、キャプチャした内容に、ちゃんと切り詰められて、122Kとかそのくらいに納まって、1ファイルに固まるわけです。で、じゃあこのファイルをどうするのかっていうと、これを見るためのビューワもちゃんとあります。今からそちらもご紹介しますと、それがこれです。これを叩くとですねえ。あ、すいません間違えた。これインストーラですね。スタートメニューのここでした。こちらを起動すると、結構重いアプリなんですけど、はい。これで起動して、openというところで先ほどのファイルを指定します。そうすると、はい。こんな感じで、わかる人にはわかるといったような内容が、ここに表示されるというわけです。まあこっちの下の方見ると、さっき僕も自分で確かめてたんですけど、このあたりはプロトコルの種別によって、たとえばTCPだったらさらに先の下側の欄を見れば、httpでこっち側とリクエスト先のIPが出てたりするのは、その程度ならわかります。でもまあ、われわれがこれでキャプチャ内容を見るというケースは、今後もおそらくないと思うんですけど、でもむしろ、キャプチャしたあとのこっちのファイルですね。これはひょっとすると開発元に提供しなければいけないようなケースも、絶対にないとは言えないと思うんで、まあもしかしたら今後役に立つかもしれないっていう程度のレベルで、頭の片隅にでもとどめておいていただければいいのかな?とも思っています。

だろうか。そういうものらしい。


書くことがないというのは、もしかすると、何にも考えてないのだろうか。今に限らず、書くことは最初からないが、それでも書けるときがあって、これらは、そういう日に書いたものなのだろうか。なのだろうか。なのだろうか、ということばは、面白い。誰がはじめに考えついたことばだろうか。なのだろうかのことばかり気になる。そして、いまさらのようだが、こういう展開にはうんざりさせられるが、それでも、これでも、書けたということになるのだろうか。これもあとから、そういう日だったということになるのだろうか。よし。おわりおわり。

横浜西


エスカレーターを降りて、建物から出た。入口が人手いっぱい。飲み会帰りか。通りも人だらけ。雨がぱらぱらと来始めている。雨の匂いに混じって、酒の匂い。人いきれ。嬌声。金曜日の夜の感じ。みんな、楽しそう。酒が入ってる。建物自体がお祭りをしているように浮かれている。ガラス張りの店の中の様子が見える。満席に近い。椅子から腰を浮かせて、身を乗り出して相手の携帯電話を覗き込んでる女性。忙しそうに立ち働く給仕。外灯を映して光るグラス。歩道から段差を降りて反対側の道に渡って、横断歩道の手前に立つ。巨大なビルが倒れてきそうで、その手前の信号がさらに倒れてきそうで、青い光がじっと見ていると眩しくて目がおかしくなる。立ち止まっているから後ろから来た人の群れに飲み込まれそうになるのを後ずさって除ける。そのとき青になって、一台の車が猛烈なスピードで右折して横断歩道を横切っていくのをみんなで見送って、前から続いてぞろぞろと歩き出す。傘を挿している。一人か二人遠くに。はっきりと感じられるくらいの雨粒がひとつ顔にあたる。横浜のみなみ西口の鬱蒼とした駅前から人通りの多い通りを越えて西口に着く。すさまじい人混み。


 屈んで、靴を履き、ドアを開けて、鍵をかけて、外に移動する。前方を見ると、春先の緑を主調とした木々の色合いが展開している。気温は低め。風の動き。薄い緑色が空に溶け合う。大気が微粒子となって身体全体を包み圧し返されて渦を巻く。過重を前方に乗せて歩く。

 ポプラ、ケヤキは一日ごとに葉を増やしていき、緑を次第に濃くしていく。サクラはすでにすっかり花弁を落として、今だけはがくと芽吹き始めた葉が不揃いに生い茂った不調和で無残な有様である。地面にはほとんど染みのようになった花弁がまだまばらに落ちている。クスノキはこの時期になると落葉する。生い茂る葉の半分は茶色く変色して、地面に落ちる。クスノキ全体が、茶色と若草色の混ざり合った不思議な色合いとなる。そして地面には大量の枯葉。そこだけ見たらまるで秋のようだ。サトザクラは今が満開で、重みのある花が零れ落ちそうなほどの量感で咲いている。ヤマブキも先々週頃から満開に近く、着色料を思わせるほど鮮やかな黄色い花をいっぱいに付けて全体が水面に覆いかぶさろうかというような格好で垂れ下がっている。シロヤマブキも咲き始めて、これは白くて可憐な花が儚い様子で微風に揺られている。以上は妻から聞いた話をまとめた私の見解。

 腕時計の針が止まった。駅のホームにある時計が一時三十五分なのに、自分の時計は一時二十五分だったのだ。そのときは、あ、この時計遅れてる、と思って、そのまま忘れてて、後でもう一度ふと腕時計を見たら、まだ一時二十五分だったので、あ、これ止まってる、と気付いた。ということは、最初に駅で見たとき、止まってから十分しか経ってなかったということか。それはすごいことかもしれない。あと十分早く見ていたら、腕時計の針が止まる瞬間を目撃できたかもしれないのだ。しかし、いやちょっと待て。十分前じゃなくて、十二時間と十分前の可能性もある。すなわち前夜の午前一時二十五分に停止したのかもしれない。それ以前ということはない。なぜなら日付がちゃんと21だったから。

 買い物する。少し高いワインを買う。これが、やはりそれなりにうまかった。

 今日は運動(水泳)しなかった。法人会員契約のフィットネスクラブを安く利用できるので、最近は水泳している。水泳しているときは、ほんとうに何も考えてない。今何メートル泳いだか数えることにしか、考える事を使ってない。これは驚くほどそうなのだ。水泳しながら考え事は、ほぼできない。まあ驚くこともできない。できることはせいぜい、何メートル泳いだか数えるのと、腕や足に蓄積されてくる疲労感の、力の調整というか、強弱の配分とか、そういうことくらいで、それが関の山だ。それを上位で指揮する部分が、ほとんど停止しているか稼動していたとしてもそのことを意識できない状態になる。

 毎日のようにアマゾンのマケプレから品物が届くので、いったい幾ら買い物しているのかと妻に言われるが、安物ばかりなのでさほどでもない。The BandのThe Last Waltzの4枚組ボックスは前から欲しかったのだが、適当な価格の中古になかなか出会えないので、まあ、急いでないからいつでもいいやと思って海外からお届けのやつを半月かそれ以上も前に買って、それが届いたのが十九日のことで、同日にリヴォン・ヘルムの訃報を知った。The Last WaltzはやっぱりBob Dylanのところが熱すぎる。マジで血が沸く。あとはハウス。Frankie Knuckles関連のCDをざーっと買い漁る。ハウス全般が好きかというとそうでもないが、Frankie Knucklesはどれも好き。クラシックの名曲だけでなく最近のmixでもすごく良い。

ばか


肌寒い一日。雨も少し降った。野菜売り場で。

何もない。ばかだ。

今日を良い一日にしよう!今日はもう終わった!

ダメだ、まったく頭に入らない。この本はちょっと、今読むのはあきらめた。降参だ。また少し時間を置いて、忘れた頃に始めからやり直しで、最初から読もう。

明日はあれをやってこれをやって。

今月か来月、旅行にでも行くか。

玉子買うの忘れた!

お届けものがまた来た。今度は郵便受けに入らない。何かと思えばこれがまた。

何これ?ゲーム?

来週こそ、アンゲロプロスを見に行く。

レシートいいです。袋もいりません。

このテレビもう二時間も見たよ。

それで、次のときまでに、ちゃんとコンディションを整えておきましょう!

Adventure


今日も肌寒い。雨も降った。最近また寝不足気味だ。今日は早めに寝るつもり。iPhoneの中に約二千曲くらい音楽が入っているのに、ランダムで再生してたらTelevisionのAdventureから立て続けに三曲か四曲くらいかかった。おー、Televisionかあ、と思う。そのくらいかなあ、書いておくべきことは。

暖かかったらしい


 今日は暖かかったらしい。日中は一歩も外に出ないから、あまりよくわからない。たしかに外で上着を脱いでシャツの腕をまくってのんびりベンチに座って読書してる人が見えたから、快適な陽気だったのだろう。ああして一日中あそこで本読んでるのは最高だろう。というか、朝、電車の中で本読んでて、このまま一日中ずーっと電車の中か公園かどこかで本読んでたいなーと毎朝のように思う。

 会社出たのが遅かったので、どうしようかと思ったが、一応ジムに立ち寄って35分くらい泳いだ。やっぱり泳ぐとさっぱりしていい。頭の中が漂白されたようで、いい感じでぼーっとしたままでいられる。着替えて、外を歩き出すのもまた、別の水の中を歩いているように思える。電車に乗って帰った。夜は夜でまた、違う。酒を飲みたいのとはまた別の夜になる。


海のような場所で、目線より少し上のあたりを、船のようなものが進む。小型の船で、どういう動力で進んでいるのかよくわからない。二人の人間が乗っているのが見える。周囲が柵で囲われていて、その囲いの奥と、手前とに、それぞれ人がいる。お互いがすれ違ってお互いの場所まで行き来できるような幅の奥行きがありそうだが、行き来するわけではないようだ。それぞれの持ち場を守るようにして立っているだけだ。手前に立ってる人は後ろを向いている。やや下向きに俯いた姿勢でいる。進行方向に背を向けている格好だが、物音で気配を察しているのかもしれない。むしろ、ああして後ろ向きでいた方が、今この情況においては、それで良いのかもしれない。そういう合理的な判断がなされているのかもしれない。方向をゆったりと変えつつ、船が進む。後方で推進力を制御しているのだろうか。後方の仕事はあまりよく見えなくて、想像するしかない。いやそんなことを言ったら、手前の人の仕事だって、実際はよくわからない。でも何か、仕事であるのは確かだろう。少し近づいてみると、二人の会話が聞こえてきそうだ。もしかすると、彼らがいったい何を話しているのか、聞くことができるかもしれない。船の先にゆっくりと近づいていくと、手前の人がくるりと振り返った。そして、いらっしゃいませ、と言う。こちらはやや驚いたが、気を取り直して舳先に貼り付けられたメニューを見ると、いくつか注文した。店内ですか?と聞かれたのでテイクアウトと答えた。

狩人


 ものすごい晴天。空気が太陽熱と地熱の板ばさみになって細かく振動している。木々の葉の緑がところどころ容量を超えてしまい溢れ出している。ポプラの木に生い茂った葉が、一枚一枚太陽光を反射していて、真昼だというのに嘘みたいにキラキラと作り物めいて光っている。北千住の東京芸術センターへ向かう。こんなにいい天気なのに、このあと暗室内で三時間も映画を観るなんて・・・と思う。アンゲロプロス「狩人」が始まる。観終わって、午後四時。身体が痛い、ぐったり、呆然。建物を出ると空はまだ充分に明るい。駅までの道を歩きながら、しばらくの間は、見ている景色や行き交う人々など目に入り耳に聴こえるものすべてが、さっきまで見ていた映画と見分けがつかない。そして、いまいる現実の時間の流れ方に異様な歪みというか違和感を感じる。これぞまさに時差ボケというやつではないか。さっきまで体験していた時間の流れ方、つまり認識や把握の処理スピード、神経の周期的反射速度、呼吸や心臓の鼓動の周期などが、映画館を出て一挙に別のリズムに全更新されてしまったことの、一時的小パニック状態に近い。映画としてその内容を色々言うようなものではなく、ただものすごかった、という感想しか出てこない。いや、大体同じように、あるシチュエーションから別のシチュエーションまでの緊迫感溢れる一連の流れを、ただ息を詰めて見つめ続けるということで、ある意味それだけが何度か同じように繰り返されるだけ、とも言えて、その単調さが三時間繰り返される事で身体への負荷がものすごくて、見終わったあとぐったりしているだけなのかもしれないが、しかしそれでもだからそれは凄くないと言うわけにもいかない。こんな映画は、さすがに他にない、世界中探してもこれだけだろうと思う。

 「狩人」は「旅芸人の記録」の次の作品だとのこと。僕が今まで観たことのあるアンゲロプロスの作品は「旅芸人の記録」「こうのとり、たちずさんで」「ユリシーズの瞳」「永遠と一日」「エレニの旅」で、それだけでイメージしていたアンゲロプロスの作品の印象よりも「狩人」は、何か観ている人に対して刺々しい感じというか、作り手の気合というか肩に力が入ってる感じというか、ケレン味もあるような、そんな少しギラギラした感じをおぼえた。

附属自然教育園


 白金台にある附属自然教育園に行く。庭園美術館が現在改装のため休館中であるが、その入口の少し先に附属自然教育園の入口がある。

 附属自然教育園が、どういう位置付けの施設なのか?というと、これを僕たちははじめ、公園だと思ってこちらへと赴いたのだが、どうもこれはそうではなかった。今、インターネットで見る限りでは、植物園あるいは庭園博物館との記述があるが、そういう感じとも違う。とにかく実際に行くと、かなり広大な敷地に原生林がそのまま存在しているというのが現実なのだった。なので、たしかにここは公園であるとも言えるが、しかし少なくとも近代的公園ではない。いや、敷地を区切って、保全しているのであれば、近代公園ではあるが、だからつまり、その方式の、もっとも原始的なやり方で運営しているというものである。

 まず非常に荒々しい自然林の姿がひたすら続く。いま自分が、港区白金台に居るというのがまったく信じられないほどの森である。始めの方の路傍植物の立て札が続くあたりは、まだ普通だが、奥へと行くにしたがって次第に鬱蒼とした樹林に囲まれ始め、勾配も上下し始める。樹林の、放置状態のありさまがかなりすごい。倒れている木を頻繁に見かける。倒れて、隣の木にしなだれかかってそのまま朽ちかけていたり、太い枝の根元から落ちて無残な断面を晒しているものや、木の周囲に太い血管のように別の種類のツタが纏いつきそれらが葉を生い茂らせてあたかも木の幹が緑色の薄手の袋をすっぽりと被ったようになっているものや、とにかく自然の旺盛な繁殖、繁盛と容赦のない腐食、朽ちた有様がそのまま丸出しになっていて、これはもはや、自然と愛でるみたいなことというよりは、僕はなぜかどちらかといえば、ゴミ捨て場を歩いているような気にさえなった。これはもちろん良い意味で言っていて、ゴミ捨て場の、見た目への配慮がない奔放さの迫力というのはある。

 また水も多く、池や沼の周辺の植物も多い。僕は湿地が好きで、箱根の湿原植生復元区なども好きで、あれは人工の面白さを堪能できるのだが、しかし湿原としては、この自然教育園内で見られるものは屈指と言って良い。湿地の迫力を存分に体験できる。それは、すさまじいものである。土と植物と泥と水が一緒くたになってまるで煮込みのようになっていて、気が狂うほどの渾然具合である。湿地自体の面積も大きい。

 このような野放しの自然というものを見ると、ふだん軽く考えているような、とても自然を楽しむどころではないと思うようなものだが、しかし昔は、これが切り取られた人工の自然だったのだから、これが人工と言って良かった。人工の鉈の入り具合が感覚的に違うことを感じる。そこに今の自分と過去の人間との生々しい違いが感じられる。附属自然教育園は全体的にも、森の中のようで綺麗や汚いという判別もほぼ意味がなく、そのような場所で僕は景色を見ながら何かを食べたり酒を飲んだりする気にはなれないと思ったが、園内の休憩できるベンチなどで弁当をつかっている人も多かった。このような荒々しい場で食事を楽しむのは僕には難しいが、戦国時代の殿様が陣を張って、自然のある区画内に垂れ幕をして、その枠の中で酒を飲んだことを想像すると、もしそれをするなら、この荒々しさに拮抗するような、極めて洗練された食材や酒の銘柄や食器類などが要請されることになるのだろうとは容易に想像された。光沢がすべるようなうつわの表面にところどころ黒く汚い泥が跳ねてしまったような激しさとしてありうるかもしれないとは思われた。それ以前に、この場所に腰を下ろすという行為が、まず何か大きな結界を越える必要があるとも思われるが。身体にじかにこれらの土や誇りや、泥や植物の胞子が付着するということに無頓着なままで良いとは思えない。あの泥に腰まで浸かっているような状態と、サンドイッチをつまんで食べるような状態とが、一緒に組み合わされることが可能な地点を、探るような困難さがある。ちなみに附属自然教育園にアルコールの持ち込みは禁止である。

 それにしても松の幹は、幹というよりもひび割れそのものと言った方が良い。あのような表面はいったい何なのか。ヒビの割れ目にもし手を入れたら手首まですっぽりと入ってしまいそうなほど深く激しい亀裂で、そのような亀裂にびっしりと覆われている。

 それ以外ではコブシ、ニレ、コナラなど、樹肌の違いを見、うえを見上げて、葉の形や群生の間隔、枝の出方などを見る。

 初夏のようで、日差しも強く、Tシャツで過ごす。


朝起きて、午前中に保坂和志「夏の終わりの林の中」再読。昨日行った白金台の自然教育園はこの小説の舞台となった場所だが、昨日の時点では、そこを歩いてるときもブログを書いてるときも、そのことをすっかり忘れていた。白金台のこの公園に行きたいと言い出したのは妻で、理由は「夏の終わりの林の中」を読んだから、とのことだが、僕は話をあまりよく聞いてなくて、単に公園に行きたいから行くのだろうと思っていて、しかしあとでよくよく聞いたら、この小説に出てくるからだというので、今日になって、妻が昨日見た印象から、また作品内のいくつかの箇所を色々と言うので、それでは僕もと思ってあらためて再読してみたら、これはなるほど、たしかに自然教育園ではないか。というか、これは、小説というよりも、あの自然教育園そのもので、なによりもまず、あの場について書かれているのではないかと思った。何もかもとりとめなく、あらわれてはきえるように書かれていて、それがまさに園内を歩いている感じがする。歩いていると、後半はかなり疲れてくるのだとは思うが、ひろ子さんが、少しつっけんどんになってきたり、よろけたりするのは、歩き疲れたからかもしれない。

 作品中に、小学校のプールに置いてあるスノコのじめじめした不潔な感じが出てくるけど、自然教育園の感じさせる何か、というか、昔の自然(日本の、と言って良いのかどうか作品中で留保されているが、とりあえず日本的と言いたくなるような特有のじめじめした)の不潔さが、自然教育園にはたしかにあって、それは不潔で嫌だという訳でもなくて、なにか、そうなんだよ本来はこうなんだよ、と納得させられるような感じの何かなのだ。わかりやすいのが、園内のトイレである。入口すぐの建物内のトイレも、外に建てられたトイレも、その雰囲気にせよ匂いにせよ、最近ではなかなか体験できないような迫力がある。公園のトイレというのは大体そういうものだが、とにかく荒々しい。湿地と、木々と、泥と、トイレ。それは何か、人をひどく憂鬱な気分にさせる何かである。