朝起きて、午前中に保坂和志「夏の終わりの林の中」再読。昨日行った白金台の自然教育園はこの小説の舞台となった場所だが、昨日の時点では、そこを歩いてるときもブログを書いてるときも、そのことをすっかり忘れていた。白金台のこの公園に行きたいと言い出したのは妻で、理由は「夏の終わりの林の中」を読んだから、とのことだが、僕は話をあまりよく聞いてなくて、単に公園に行きたいから行くのだろうと思っていて、しかしあとでよくよく聞いたら、この小説に出てくるからだというので、今日になって、妻が昨日見た印象から、また作品内のいくつかの箇所を色々と言うので、それでは僕もと思ってあらためて再読してみたら、これはなるほど、たしかに自然教育園ではないか。というか、これは、小説というよりも、あの自然教育園そのもので、なによりもまず、あの場について書かれているのではないかと思った。何もかもとりとめなく、あらわれてはきえるように書かれていて、それがまさに園内を歩いている感じがする。歩いていると、後半はかなり疲れてくるのだとは思うが、ひろ子さんが、少しつっけんどんになってきたり、よろけたりするのは、歩き疲れたからかもしれない。

 作品中に、小学校のプールに置いてあるスノコのじめじめした不潔な感じが出てくるけど、自然教育園の感じさせる何か、というか、昔の自然(日本の、と言って良いのかどうか作品中で留保されているが、とりあえず日本的と言いたくなるような特有のじめじめした)の不潔さが、自然教育園にはたしかにあって、それは不潔で嫌だという訳でもなくて、なにか、そうなんだよ本来はこうなんだよ、と納得させられるような感じの何かなのだ。わかりやすいのが、園内のトイレである。入口すぐの建物内のトイレも、外に建てられたトイレも、その雰囲気にせよ匂いにせよ、最近ではなかなか体験できないような迫力がある。公園のトイレというのは大体そういうものだが、とにかく荒々しい。湿地と、木々と、泥と、トイレ。それは何か、人をひどく憂鬱な気分にさせる何かである。