身体や心のことについて、いまのこの感覚。この私の心と身体の感覚とは、別の認識をもった時点で、ほとんど死んだようなものではないだろうか。ライプニッツとか、ベルクソンとか、いったいどうなると、あんな異常なことを考えつくのか。もちろんあまりよくわかっていないけど、それでも、それにしても、あまりにも異常だろ。ほんとうに、ああいうことを一度でも、「実感」として思ったのだろうか?いや、あれを「実感」というのが、ほとんど無理でしょ。あれをわかった時点で、ただちに死ぬような気がするのだが、そうでもないのか?そもそも、クオリアが平面Pの上にちらばっていて、それらは客観的に存在しているといわれると、それはすでにもう、僕の思ってたクオリアとは別のクオリアの話ですよね、とも思うが、いや、でもそれはそうなのだ、そもそも、そっちの方なので、と云われても。とはいえ、そのあと主観的なものは過去に、と云われて、そこがなんとなくぼやっと、ああそれはそうだと思わせるほんの少しの、それこそ「実感」があるようにも思われ、もはやその「実感」に、なんの意味があるのかさっぱりわからないが、でもモナドに窓がない、というのも、それを巡る延々とあるさまざまな話と並行して、やはりその窓のなさの「感じ」、暗さの「感じ」、その現実的な気配の「感じ」に、きわめて微弱ながらある種の「実感」を感じもしていて、それが、そのことを考えさせ続けるか細い力として、ずっと作用もしていて、理解というのも実感というのも共感とかでもいいが、それらにほとんど意味などなく、おおよそは、ああ、狂ってるなあと思っていて、繰り返すが、これってもしわかったらそれは、ほとんど死ぬこととかわらない、というような話であろうと思っている。