乳液に泥を混ぜたような、濁った川が流れていて、その脇に鉄骨の足場が組まれていて、板が渡されている。それで一応、散歩のできる遊歩道ような体裁になっているが、板は薄く、歩くと足音が川と足場の下のあいだの空間にひびいて、なんとなく危なっかしい場所を歩いているような感じもする。


その川には、鯉がいる。しかも無数に。水はけっこう汚れているように見えるが、実際はそうでもないのか、もしくは、実際に汚れているのに、そこに鯉が無理やり放流されてしまったのか、よくわからないが、とにかくいる。しかも、多数。かつ、巨大。音もなく、泥のような水のなかから、のっそりと浮かび上がってくる。そういうのが、無数にいる。


最近僕らは、週末ごとに公園だの庭園だの植物園だのに行くので、そのたびに、毎回、池のほとりをうろうろしていて、だから鯉の姿を見ることも多い。だから池で泳ぐ鯉がそれなりに巨大であることは、昔からよくわかっているつもりではあったのだが、なんというか、今見ているこの鯉たちの姿には、ちょっと今までとは別の、異様な凄みがある。ああ、まずいな、という気持ちになる。いやなものを見た気分になるのだ。たぶん、ふだん気にもとめないような、さまざまな事象のうちのひとつに過ぎないような、こんな鯉の泳ぐ風景というのも、じつは何度も度重なって見るたびに、少しずつおかしな箇所が見えてきて、それで不安や不快さが生じてくる。そういうものなのかもしれない。そういう気分にさせる何かは充分にあるような、それらの鯉の姿。


歩き続けるたびに、川の底から、何匹も何匹も、鯉はのっそりと川面に姿をあらわす。ぬーっと、うかびあがってきて、そして、頭を水面に出す。その二つの目で、こちらを見上げる。そして、口を大きく開ける。まん丸の、中が真っ白な口だ。


その橋桁を歩いているあいだ、何十匹、もしかしたら百何十匹とか、それ以上の鯉が、まったく同じように、暗い水の底から、浮かび上がる。こちらを見上げる。口を開ける。その繰り返しだ。


そもそも、魚類が、我々人間を眼差す。という事実を、僕は今日まで実感として感じたことがなかった。魚が、こちらを見る。魚のくせに、こちらのことをわかっているのだ。これはいったい、どういうことなのか。


魚が、あの顔を、まともにこちらに向けて、両目をこちらに向けているということを、今想像することはできるか?という話である。なかなか難しいのではないか。しかし、鯉のいる池に行けば、すぐにそれを体験できる。鯉は、そのような顔をもっており、その顔で、まともにこちらを見るのだ。たぶん、鯉は、顔もあるし頭部もある。ふと頭をもたげたり、ふいに気付いて振り返ったり、そういうことが可能だ。それは、身体の構造の問題ではなく、眼差しの力を持っているがゆえだ。


あの泥のなかから、浮かび上がってきたものが、頭をもたげて、こちらを見上げる。その奇怪さ。気味の悪さだ。…要するに、僕や、隣の人のような、人間の歩いている、その足音を聞いて、真下から、鯉たちが水底から、上がってくるのである。上がってきて、何か食べ物をくれと言って、こちらを見上げて、口をあけるのだ。そういうことなのである。あとからあとから、ひたすら上がってくるのだ。そしてあの目で、こちらを見て、丸い口をあける。


こちらの歩く足音を、聞いているのだ。たぶんそうに違いない。聞こえているということは、耳があるに違いない。音を感じ取れる器官をもっている。鯉には、耳があるのか。いやもしかすると、橋桁を伝わってくる振動を感知しているのかもしれない。音はさすがに、聞こえていないか。いやしかし、音がすると、あの者どもは、浮かび上がってくるのだ。こちらの方にくるのだ。だとすれば感覚器官がどうであれ、聞こえているから、こちらに来るのだ。だから事実として、実質的に、耳を持っているのと一緒じゃないか。


耳も目も口もあって、それらを、こちらにぐっと向けるのだ。魚が、正面からみた顔、というものを持っているのだ。表情が伝えるものを、こちらに送りつけてくるのである。これはもしかしたら、おそらく、茶碗や電柱が、こちらを見上げてきたり、見下ろしていたりするのと、そう変わらないことなんじゃないかという気さえする。


そんな風に、悪い想像をどんどん膨らませてしまって、すっかり無口になったまま、なすすべなくひたすら、池のほとりを歩いていて、最後のほうになると、鯉はさっきよりもずいぶん増えていて、いちどに何匹もいっせいに上がってきて、池中が鯉だらけで、皆が一匹残らず、口を開けていて、ああ今、誤ってこの池に落ちたら、僕は死ぬなと思った。たぶんふつうに死ぬよりも、何十倍もおそろしい思いを味わった末に死ぬだろうと思った。


鯉って、そもそもなぜあんなに巨大なのだろうか。両手でワッカを作ってできる円の直径なんかよりもはるかに巨大な胴回りの、狂ったような肥満体の体躯をぬめらせて、くねらせて、汚らしい川の中を悠然と泳いでいる。そして何かを喰わせろとあの口をぽかーっとあける。陰部の白さを見せ付けられたような、その口の中。


鯉を食べる、という話もあるらしい。今のところ、それは想像できない。まあ、食べるというのは、さまざまな意味を含むのだから、それはそれで、面白いかもしれないし、もしそのチャンスが来たら食べてみてもいい。でも鯉は不気味だ。鯉だけは、たぶん、マナイタの上で捌かれる直前に、料理人の方を見上げて、まともにその目を眼差して、口をぱかっとあけるのではないか。ただの魚類で、感情はもちろん、表情すらないくせに、視線だけをもっている。いったい、何なのか。その視線の先に読み取るべき何かが無いのはわかっているのに、ただ、こちらをみるのだ。