顔はすごく楽しそうなのに、内心はそうじゃない、というのは、よくあるパターンだが、その逆で顔は普通だけど、内側ではすごく楽しい、というのは、相手がそんな風だと、嬉しいものだ。とはいえ、それも外側から見てるだけなので、本当のところはわからない。相手がこうだから、こちらも楽しいとか、そういうのは実のところすべてこちらの思いこみに過ぎないのだが、しかしそれはずっと遥か昔からそうなのだから、今更言ってもしょうがない。顔には出てないけど楽しそうな人と一緒にいるのは楽しい。声の抑揚が少ない人が、少し話す速度が早くなってきたくらいのとき、その話を聞いているのは結構好きだ。他人と合わせようとする意識がデフォルトで低いのに、それと矛盾しないような人懐っこさのある人の、低温なままで、ずるずるととりとめなく話しが続くような感じになったとき、それはそれでとてもいい。嬉しいも淋しいもいらいらするも全部おなじ調子で、なんでもないいつもの抑揚で同じように表現するやり方が好きだ。なにしろ人の声はまともにこちらにちゃんと届くから頼もしい。何を喋っているかと、どんな声で喋っているかと、ほぼ同じ比重がある。そう言ってる僕は僕の声をまともに聴くことができないのだから、まったくあれもこれも、何もかもが、まるで箱の中の暗闇の中での一方的な思い込みに過ぎないのだが。