「るきさん」


高野文子るきさん」を読む。屈託無く、豪快。相手を歯牙にもかけぬ態度。たぶんきっと、かつては、自意識の欠如という名のかぎりなく天然に近い、しかし自ら目視可能な自意識を手に入れたかった。痩身に、もてあますような長い手足に、お気に入りのペタンとした布製の靴。ワンピース。ブラウス。洗濯モノが乾かなければエプロンでもレインコートでも着て、たまにちゃんとした格好して、踵の高い靴を履いて歩くときの姿勢と歩き方はこうだ。


おそらく、服装というものと自分との、このようなはっきりとした手触りの感じられるかかわりを得たかった。


一人暮らしというものの理想。完全な一人。るきさんにはおそらく親も兄弟もいない、といか想定がない。一ヶ月分の仕事を一週間で終えて、後は日々図書館の本を読んでいる。こういう「一人暮らし」を、たしかに昔は幻想していたかもしれない。


で、湯のみにあまったお茶は縁側からぴゃっと捨てるし、火鉢の各部位の名前も知ってる。両親や祖父や祖母の世代のしぐさを引き継いでいる。


家で過ごすときの、卓袱台で前屈みになって麺類を啜るときの、黒電話の渦巻いた電話線をめいっぱい引っ張り伸ばして顎で受話器を挟んで部屋のどこまでも行く(これ、自分も出来ます)。


お風呂に入れば気持ちいい。お蒲団で寝たいのである。ギョーザをたくさん焼いてビール。バブルなどと呼ばれた当時だって、じつは誰もがそうで、むしろ、このような輪郭のくっきりとした「貧しさ」のよさを、皆が頭の中でだけは思い浮かべていた。(おそらくそれはその後あらわれた「清貧」とは違う。)


つまり最初から「お婆さん」でかまわなかったという全員の潜在的な気持ちを背負って、るきさんは日々を生きたが、それでもやはり僕から見る限り、あえて言えばるきさんは女性的な魅力を微温的に浮かべているし、そのしぐさや一挙手一投足をひたすら眺め続けたい対象である。


最後には、るきさん、ふっと消えてしまって、まるで何十年か前まで親しくしていて、今はどこで何をしているか全くわからなくなってしまった人のように、あえてベタに臭い言葉を使えば、るきさんこそ、まさにつれない恋人の典型というか、こういう人の去った後の記憶にこそ、われわれはその後しばらく長いこと苦しめられることになる。