室内画


今日は、ものすごく久しぶりに絵を描く。と言っても、クロッキーブックを膝に乗せて鉛筆でざーっと描いていただけだけれども。


しかし、それでも久々の絵だった。午後いっぱい、思った以上にやった。ほんとうにひさしぶり。もう何年も会ってない久しぶりの人に、ふいに再開したような経験だった。それは過去の自分なのだが、ここまで久しぶりだと、ほとんど他人同然だった。リアルな他人の香りがした。


室内がある、ということを描いた。「室内がある」などという言い方があるだろうか?でも、室内がある、と思って描いた。言い方としてはおかしいのだけれども、絵で描くならむしろ、そう捉えなければ逆におかしい。


かつての自分は、人物を描くとき、その人物だけを描こうとしていて、しかし描くとはどうしても、描こうとするそれ以外のことに、まったく無頓着でいることはできず、描こうとしていないものが画面に入ってくること、あるいは入ってこないことをどう考えるのか?ということが大きな問題になってきて、実質的にはその周辺というか境界線の部分を、必死になって、描く、と、描かない、の、中間の領域に耐えるような状態になる。


それは、かなりキツイ、かなり袋小路なアタックになってしまって、心身共にへとへとになってしまい、かつ展望も明るくなく、それでは厳しいという予想なのだが、今回のように室内空間である、と思うと、とりあえずはふっと気持ちが軽くなり、手の動く余地が大幅に生まれてくる。その気持ちの問題というのは、ものすごく重要で、結局墜落するにせよ、最初から心が塞いだままであるよりも、幻想でもいいからとりあえず明るい希望をこころにもって離陸したいのである。


絵はほんとうに、どうしても、そうなる。その点、小説というものはあまり無茶苦茶はできないようにも思う。いや別に、何でも出来るだろうけど、自分としては、あっと言う間にわけがわからなくなる。いま座礁している書きかけのやつを思い浮かべてそう思う。絵もそうだけど、絵の方がまだ、読むことに入る瞬間の部分が容易な気がする。でも小説も最初に読み始めるイントロのところから、ぐっと読みに入る部分の、これはだまされてみたいと思わせる感触のところがもしそうできたら、絵も小説も同じような感じの、読まれるのを待つ謎の構造物みたいなものになり、アクセスと同時にぐっとイケるようなものになるだろう。…まあ、どうでもいいか。十年一日だ。ほんとうに、何も変わらない。自分の、何十年経ってもあまりにも何も変わらないこと自体に驚く。