「5つ数えれば君の夢」と「緑の光線」


山戸結希「5つ数えれば君の夢」をDVDで。これは…ものすごかった。午前中に見たのだが、午前0時を過ぎた今の時点で思い出して、まだじわじわと来るものがある。完全に頭のおかしい、本気でキレまくった作品と言って過言ではない。なるほど、モノをつくるならここまでやれということなのか。ここまで徹底すれば、普通なら溶け合わないものが、ああしてずるずると溶解して、渾然となって、得体の知れない何かが浮かび上がってくるのか。でもそれと引き換えに、あのようなある種、眼をそむけずにはいられないような何かにもなるのか。今、作るなら、ここまでしなければいけないのか。…マジか。正直、自分の好みの世界を構成する種々のアイテムと、この作品の各要素は、あまりにもかけはなれていて、ほんらいなら僕がこの映画を観る理由は何も無い。まさに僕と「関係なさ過ぎる」はずなのに、今時点で不可逆的な何かを感じてしまっている。


映画の素晴らしさ・・・とは、それは、映画が素晴らしい、ということを言おうとする映画が素晴らしいのだ、と言って良いのか。音楽でも絵画でも、そうなのだろうか。


映画なんてもう、いいよどうでも、という映画が素晴らしい場合は、その場合はどうしてもその「作家性」みたいなものがタテマエにあって、いわば映画を「横に観る」のではなくて「縦に観る」場合にだけ、「映画なんてもうどうでもいい」という映画を作れる。そもそも「横に観る」映画は、この世に映画というものが存在することを知らない、映画が存在しない世界を描いているのが前提だから。


「5つ数えれば君の夢」もそうで、映画的な、かつての、素晴らしかったたくさんの何かを今リバイバルさせようと、もし試みたとしたら、それがあそこまでグロテスクかつお笑い的なものになってしまう、というのが、真剣な迫力として響いていて、なんというか、ぐうの音も出ないというか、ちょっと目の覚めるような思いがした。


ロメール緑の光線」をVHSで。これは、もうこのままでいい。ひたすら観てるだけ。楽しむだけ。なんか、身につまされる。フランスのヴァカンスはいいね。二週間も三週間もあって、主役の子は一人だから手持ち無沙汰で可哀想なのである。デルフィーヌが、バカなの。バカな子だから、思わず、笑っちゃうのだ。なんか、いいなあ、僕みたいだ。もう、すごいの。この映画は。どうでもいいわ!と百回くらい、つっこみたくなる。ほんとうに時間が、もう映画のなかに流れてる時間が、もうほんとうにすごい。なんだこの、果てのない血流の止まってしまったままの、どこまでも続く、永遠の時間は。波が打ち寄せては引いて、それ以上何もないのか。うつくしい浜辺もさることながら、ほとんどどうでもいい、なんでもない新緑の風景、景色って結局、空気で、その空気を吸ってたように思えると、いつまでも忘れられなくなる。


「5つ数えれば君の夢」も、「緑の光線」も、たぶんまた、いつかもう一度観るだろうけれども、再見したい理由が全く違うところが面白い。