杉浦大和 展


ふらふらと歩いて、どんなものかと思って東京拘置所矯正展という催しを見に行く。別に何ということもなく、まあこんなもんかという感じで、会場をざっと一巡してそのまま退場。いつも通り荒川沿いを経て図書館に寄ってツタヤに寄って、日比谷線で銀座まで移動。なびす画廊で「杉浦大和展」。


会場に居たのは、ほんの十分か十五分くらいだろうか。しかしこれは本来なら一時間でも二時間でも、いくらでも観ていられるような作品であって、しかしわずかな時間しか観ていないとしても、あるいは一時間でも二時間でも思いのままに観ていたとしても、観ている自分が、作品のなかの時間と、真正面から向き合っていられたと感じることは不可能かもしれない、とも思う。それは絵画がもともとそういうものだったでしょうと思いたくなるようなニュアンスで、である。いったいあれらは、目の前にそれがあるとき、それが「これからそうなろうとしている」のか「いま、それがそうだ」なのか「いくつもが、こうであればよい」なのか、そのどれも、でもあるようなので、それを単純な出来事(単純な過去に属する認識物)ではないものだとして、そのゆったりとした含みも込みで感じ始めることができるまでの時間が、まずあって、その中でさあ、まずお前はさしあたりどう過ごすのだ、今どうなのだ、今を利用するのか記憶に一旦おとすのかかつての記憶と混ぜてやり直してみるのか、好きにしなさいということだとも云える。


今、まさにそれがこうである(現在進行形)でありながら、すべてはすでに画面上に展開されきってしまった(過去の記録)でもあるという、その両方をステレオで聴きながら、ほんの些細な出来事がとてつもなく大きな仕事だが、その些細さは、何によって些細と名指されたのかがただちに揺らいで、大きさと小ささが、薄さと濃さが、流れと溜めが、子供でもわかる明快な場所を用意してくれるので、そこに何度も戻って、ふたたびそこから、あらためて行為の些細さを発見しにかかり、また出来事らしきことを目の前にして、その内側にほんとうは大きく口を開けているすかすかした部分へ身体の片側だけが吸い寄せられていて、せわしなく息継ぎしながら否応なしにずるずる潜り込んでいくような。


新橋で呑んで帰宅。