占領下のパリの、レジスタンスや共産主義者たちとゲシュタポの攻防。血なまぐさい、気が重くなるようなことばかり起きて、でも休日が来て、バスケットに、ソーセージと冷たいトマトを切ったやつと、アルザスワインを入れて、恋人とピクニックに行った1944年夏。あの時代でさえ、そういう日曜日の昼下がりも、間違いなくあった。それは確固たる事実だ。戦時下だろうが何だろうが、天気の良い休日が消滅することはない。だからそれ以外のことはもう、何も信じない。ワインと軽食を持参して公園や水辺で過ごす。それを、これからもけしてやめない。ひたすら無為に怠惰に。ばかで、何がわるい。権利とか自由とか、そんな言葉すら必要ない。まさに、ばかばかしいくらい、あたりまえだ。余計なことをするな、大人しくしてろ、少し黙っててくれ、べつにそのままで、誰も君を悪く言わないじゃないか、お前の独善で、皆が迷惑するのだ、触らなくていいのよ、そっとしとけよ、世の中の、やる気のある人たち全員に、そう言ってやらないといけない。貧乏揺すりをやめろ。その金はやるから、あとは任期満了まで、適当にさぼってなよ、家の中にいないで外で遊びなよ、公園で寝転んでればいいじゃないか。こんな天気のいい日なのだし、日の暮れるまでぼけーっと、時間をやり過ごすことのできる人ばかりなら、たぶんほんとうに世の中良くなるのだろうけれども、そうも行かないのだろう。みんなあくせくしないと、生きられないのが実情である。少しでも家に引きこもると、被害妄想みたいになって、まあ自分も、人を笑えないか。これからも皆で少しずつ、首を絞めあうしかないのか。