きょうのできごと


柴崎友香きょうのできごと」を読む。「ジャームッシュ以降の作家」で保坂和志は「彼は現在を生きる私たちが、未来に希望を持っていないことを『ストレンジャー〜』によって、はっきりと見せてしまった。未来に希望がないとしたら、「あるのは絶望だけだ」というのは、『ストレンジャー〜』以前の考え方で、私たちは未来に対して希望も持っていないけれど絶望も感じていない。」と書いた。実際は最初からそうだったはずなのに、なぜかそうじゃないとされていたものを、ある人が「いやいや、じつはこうでしょ、みんな気づこうよ。」と言って、それはたしかにそうだった。誰もが認めざるを得なかったということ、すぐれた芸術はだいたいそんな、何か新たな発見というよりは、誰もがそうじゃないと思ってることを、いや、そうでしょとシンプルに指摘するだけみたいなものが多い。「きょうのできごと」に書かれているのは、深夜のドライブとか友達の家の引っ越しパーティーとか以前の、その場にいる一人の視点から描くときの、言葉によるいちいちのあらわれかたそのものという感じだ。というか小説のタイトルは「きょうのできごと」ではあるが、ここにはもはやできごとすらないというか、現実に生きていると、出来事というかたまりは存在しないのと同じで、小説なのに出来事とかエピソードではないもので作られているという感じなのだ。たとえば「楽しさ」だとか「待つ」とか、現実に感じられるその時間のようななめらかな質感。それをこれみよがしに技巧的にやるのではなく、じつに当たり前の感じで水が流れるように作り出している。僕が「きょうのできごと」をはじめて読んだのは、それほど昔ではない。今から十年も経ってないと思う。しかし当初はまさに"良さがよくわからない"という感想だったように思う。ということで、もっとも基本となる部分を再履修している状態。