古谷利裕・ドローイングス2006 吉祥寺 A-Things


A-Things」ギャラリー内に入る。ぶっきらぼうなドローイング群である。墨汁のような色と質感の線。


思ったほど多数の作品が並んでいる訳ではない。「58点」(偽日記@はてなより)というのはたしかに多いハズだが、見た感じ、あまり多い。という印象は受けない。


周りをぐるっと見渡して、そのあと、一枚一枚を丹念に観る。


たとえば、同一のモチーフの、バリエーションを見せる。というような感じは受けない


細い/太い、とか、他と近い/遠い、とか、寄ってる/離れてる、とかそういうのを端から、眼で追い続ける。線の表情は、予想以上に多種多様。


閉じきっていない紡錘形のようなかたちの繰り返しや、秋の枯葉のようなかさついた感じや、布の皺のような感じが重なりつつ…しばらくすると、自分内の予想よりも積極的に、それらを感受する心の機能が開いていくのがわかるので、こういうのは、絵を観るときの喜びの、かなり原始的な所かもしれないな。と思う。というか、ギャラリーを出た後に、自分の感覚が開いていた事に気付くような些細なものなのだが、鑑賞した事で、その思いがけない心のシフトを促された。というのはある。


感覚が開くと言えば、2004年の銀座でも、同じ感覚を味合わせてもらった。これが、はじめて古谷氏の作品を見た瞬間だ。あのときも良かった。絵の具(としか呼びようがない目の前の何か) が、せり上がっていき、たちこめるような間隔を味わった。古谷氏と言えば、あまりにも素晴らしいウェブサイト「偽日記」の記述者/管理者であり、この日記には、簡単に説明不可能なほど感銘を受けたし、美術に関わる人間である以上、例外なく必読の文書だと、昔も今も思っているが、とりあえず、そんなウェブサイトを知って、(VOCA展2002は観てるけど) はじめて作品を観れるチャンスが2004年の銀座だった。という。


2005年の川崎での個展では、全体の印象として、整然とした感じが強すぎなように感じた。会場の入り口から一番奥にあった作品で、重なり合う沢山のストロークの、突出して激しい動きのヤツがいて、そいつの妙な元気さに囚われた記憶がある。今となっては、そのぐいーっと引かれた褐色のストロークの鮮明な感じだけが、記憶にある。


古谷氏の作品では、ドローイングもタブローも「消去した」痕跡がない。やり直して、又描く。という重なりが見出せない。


タブローなんか、「書」のように後戻り不能なやりかたで、一筆一筆を置いていって、最後まで、後戻りなしの一発決めで作られてると思われる。こういう境地。というか、こういう作品を作る気持ちというのは、僕にはよく理解できない。なんと言うか、これだけの手数で、自分の作品から「絵を描きつつ絵の具に触発されるような(風の旅人20号より)」要素を、あらかじめ「これだけの量で問題無い。」と確定できるところが、すごいなと感じる。


それにしても墨にせよ、ジェッソにせよ、どちらも扱う快楽が高い素材だと思う。


墨は、垂らせば、「黒」としか言いようの無い力で、黒く、溜まるだろう。


ジェッソだけで描きたい。というのは、感じた事がある。というか、美術の関わった人なら、誰でも潜在的にもってる欲望ではないか?(言いすぎか)。ぽたぽた垂らすことの、これほど容易で気持ちの良い素材はないし、ジェッソの、なんとも好ましい、サラサラしているのにしっかり画面に吸着する濃度は、なんとも小憎らしいほど可愛く、弄びたい感じがある。


だから、古谷氏のタブローの前では、「この素材を使って描くことが、こんなに気持ち良いんだ」という事を知っていて観ると、かなり違うと思う。


ちなみに同行した妻は、やはり、どうもよく判らないような顔をしていた。疲れたようである。

妻は吉祥寺という街がが好きである。でも僕は、吉祥寺というところは正直、あまり好きな場所ではない。

ものすごい浮ついた感じがあって、不快指数が高いと感じる。喫茶店とか、食事する店の雰囲気も、大体嫌いな部類である。お前の趣味に付き合ってられないよ。と言いたくなるような感じがある。…もっとも僕の絵だって、ずいぶん「趣味的」なのかも知れないが…まあそれはともかく、古谷氏の作品のストイックさと、吉祥寺という場所の雰囲気は、単純に考えて正反対じゃないかな?と思われるのだが、前回と今回の展示に関しては、なんか猛烈な「不思議に相性が良い」感じを漂わせていると思った。(永瀬恭一氏が前回の展示について、【古谷利裕 meets A-thing】 とも言うべき内容で言及されている。http://d.hatena.ne.jp/eyck/20060428 
ここでの話と、僕もほぼ同じ事を僕も感じたのかもしれない。つまり単独の思考ではない、複数の思考結果に拠る偶然の幸運…) しかしこういうのは狙ってやれる事でもないのかもしれないし、ある種の「たまたま落ちてきた幸運」に近いのかも知れないし、なおかつその場合、その幸運を享楽するのは、常に「作者側」ではなく「鑑賞者側」なのだけど…。。でも、それはとても美しい話ですよね。。