喜びに関して


随分前に読んだもので、もう既に書いた人も題名も全体の内容も忘れてしまった小説だかなんかの文章の中なのだが、登場人物の女性が不倫相手と2回目の性交渉の最中、という場面があって、そこでその女性がすごい快感を感じながら、ああ、これはやっぱ最高だ。と思っているような描写があったのだけ憶えているのだが、これが何故、ヤケに印象的なのかっていうと、たぶんあらゆる喜びというのは、おそらく2度目以降の体験で、やっとはっきりとした輪郭を備えて現れてくるものだというのを思い起こさせるからだと思う。例えが性的な場面なので誤解を招くアレだが、こういう感じというのは何も性感に限らないので、基本的に、全ての喜びは、2度目以降やっと体を成すようなものなので、つまり何事も2度目が最高の体験になり得るのだろうが、それは最高の体験であると同時に、そういうのを感受している私、自体の確認の意味も併せ持つ事になるだろう。つまり、何かを味わう場合、必ず、そういうのを感受している私自体の確認が同時に行われているのだ。そういう、確認されカッコに括られた「私」の認識を欠いては、起こっている事や感じている事を何も理解できないという事にもなろう。まあ勿論、理解なんてする必要は全然なくて、すべてが「はじめて」の感覚の積み重ねである人もいるのだろうから。それはそれで、いやむしろそっちの方がすげえ。でも大抵の場合は、2回目ではじめて「ああ、これはやっぱ最高だ。」と思うのだ。じゃあ最初はどうか?というと、これはやっぱり単なるショックだったり単なる恐怖だったり、そういう事でしかないと思われる。それを感受・判断するための、心の中の「作業場」をあらかじめ自分の中に準備できていないからだろう。この1度目と2度目以降との狭間に嵌ってしまうと、怖いことになる。2度目以降の貪欲になった感覚が、本来1度目でしか味わえない類稀な新鮮な感覚を求め過ぎるとヤバイ。


というか、つまり喜びというものをどう捉えていくか?も難しいところがあるのだ。行き続ける上で、喜びの多い人生とかって言ったら、そういう単発的な喜びがやたら多発するパターンもあれば、一度だけの出来事が、その後も長くその後に作用し続けるパターンもあるだろう。…まとまらないがここまで。