家に居ます(別人)


プロセス→コンプリート。というシークエンスの反復で絵が出来てしまう訳ではない。いや、実は出来てしまうのだが、そのように出来たものは自分がやれる範囲内の手持ちの技の縮小再生産でしかなく、それらを冷静に観たとき、自分でも面白いとは思えないので、そこで試行錯誤が始まる。たとえば全体に、こういう感じが足りないのだが、このような事をしたら、その足りない何かを補う事になるのか?っていうか、もしそうではない結果になったら、それは一体どのような事態と捉えれば良いのか?っていうか、実際の加筆が、何かが足りないと思ってる事前イメージ自体を壊してくれる事を期待しているのではないか?…などと、考えは事あるごとにふらふら揺れ動く。まあでも、大体、頭の中にせいぜい幾つかの、良いと思われるパターンがあって、それらのうちのどこかに偶然にでも結果がおさまってしまえば良いという非常に大雑把な感覚もある。そういうところでフラフラしてる時間が長いと、徒労感が募ってくるし、なんかグッと加速してくると、俄然楽しくなっても来る。


まあそういうのには、気分の調整が結構重要なのだ。このまま続けるとどうなるのか?を考えて、とりあえず、高揚ではなく、普通に気分が良いときは、最も自分が自由になっているときである。手を休めて作品の前を離れるとか、本日の制作終了の際に、気分がそういう状態であれば、とても良い。それは、この後の作業のやり方として、とりあえずその方向性のおおまかな所に関してはしばらく揺るがないだろうと、一応自分に言い聞かせて制作を終える事ができるからである。


次回また作品の前に来たときに、そんな気分の形骸だけでも残っていれば、また続きの仕事が可能になるが、残っていないと、まったく別人が別の考えで、ひとつの絵に描き足していくようなことにもなる。まあしかし、それが悪いのか良いのかも判らない。別人が度々加筆してる方が面白い可能性もある。そういう自分をものすごい完璧に制御した結果の成果を、人が見たいとは限らないからだ。


しかし僕の場合、やはり「別人が度々加筆してる」モードで絵が進むと、あんまり面白くない事になりがちだと思った。僕の中の「別人」たちは、ほんとうに皆気弱で、大体この辺のこのあたりの落としどころで…みたいな意識が強すぎる感じ。むしろ思い込みだけで一挙にどうしようもなく酷いラインで行き切っちゃう方が良いのかもしれない。酷いと自分が思ってるものは、実はさほど酷くない可能性もある。そういうときはまた、別人としての自分がそう思うのだが。常に同一の自分がぐわーっと描くと、大体どんなものが出来るかは想像できる気がする。常に別人としての自分が別人であるまま、ぐわーっと盛り上がって描けるのが、良い感じと言えるのかもしれない。


…まあ、でも結果的に自分が良いと思ったものが、実はさほど良くない。っていうのはお約束っていうか、そこは「賭け」ですから、外すことを恐れてはいけない。。