「Why Can't We Live Together」 Timmy Thomas


Why Can't We Live Together


人体を描く。というか、人体らしきものを描く。なんていう場合、腕や脚を、胴体を、半身を、腰周りを…それらが織り成す、ある種の、なにがしかのニュアンスを描く。・・・という事で、その事の周りをうろうろするのだが、しかしワトソン特厚に筆記具を滑らせ始めるときの感じとか、線が走り、交差し、重なっていくときの感じとか、そういったところに居る段階から、いきなり人体らしきものを描く。という段階に飛び移ってしまう訳ではない。というか、そこのあいだで、しつこく逡巡する必要をもっと痛感しましょうという話。なぜなら、いきなり人体らしきものを描く事に浸ることは、もうとてつもなく簡単な事であるからだ。


つまり、本来そこにある筈の軋轢を無かったことにして、簡単に「良い感じ」にして、楽しむなよ!と言うこと。…というか、何が良い感じなのか?って言う話だ。僕はたぶん、所謂まあまあな感じに仕上げることはまあまあ、そこそこ出来るのだと思う…。というか仕上げがちになってしまうというか、今までの経験とか、そういうのを想像したりすればするほど、そっちに激しく引っ張られる。なので、相当そのへんに注意深くて良いと言える。っていうか、もっと相当、人体が出てくる瞬間に気合を入れないと駄目。


例えば、音楽なんかは、驚くほど細かく細かく聴き込まれているものだ。ポップミュージック一曲を侮ってはいけなくて、またポップミュージック一曲から人が聴き取ろうとする情報の量を侮ってはいけない。僕なんかはいつも、画面上の細かな事を相当時間を掛けてああでもないこうでもないと逡巡しつつやってるのだが、昔はそういうのが空しいというか、どうせこんな細かいことしても人はさほど見ないだろう。なんて思っていた事もあったのだが、それは間違いであった。あさはかであった。人を、侮りすぎていた。人は、作り手の意図を超えて、その作品を観て、観倒すような存在である。作り手は、それに耐えなければいけないのである。


そういうのが一時的に信じられなくなったら、Timmy Thomasの「Why Can't We Live Together」を聴けば良いのだ。オルガンと貧弱なリズムボックスだけを伴奏にして、「なぜ僕らは一緒に生きていけないんだろう」とうたう、このソウルを聴くのだ!それで、多分また別のやり方なら、あるいは皆で一緒に生きられるのかもねと、思い直すのだ。