MOTアニュアル 「等身大の約束」東京都現代美術館


表題のヤツを観にいったのだが、予想に反してなかなか面白かった。MOTアニュアルは律儀に毎年みていて、去年とかすごいつまらなかったのだが、今年はかなり持ち直したというか、まあ良かったと思った。もちろん全ての出品作家の作品が良い。という事ではないのだが、でも何がしかの面白さを感じることが出来た。…というか、僕が制作する上で、なるほどなあ。いろいろ気をつけなきゃなあと思うことが多かった。以下、いろいろ文句を書いているが、それでも基本的に、面白いと思いながら観ていた。


秋山さやか氏の、あの、のたくる様な逡巡してまた伸び盛って団子になりほつれ合い縺れ合う糸たちの有様は、普通に観ていてとてもキレイなもので、結論を先に書くと、秋山さやか氏の作品を体験するというのは、本来、これらの様子を観る事以上でも以下でもないのだと思う。


それなのに、展示の中に何か余計な要素が多い気がした。旅日記の記録のように日を追って連続して展示されている作品の並びなんかを見てると、展示物ひとつひとつが個性的だし、観ていて楽しいといえば楽しいのだが、同時にほとんど作品と言えるレベルから零れ落ちて紙くずとなる一歩手前というか紙一重というか…そういうぎりぎりの儚さというか、単なる何かの残滓という感じも強く、そういう感じも多分、作家による意図的な操作の結果として在るのだろうという事はよく判るものの、それでもこれはもはや、モノ一つ(作品)の力とは別の何かを表象させようとしてるんだろうなあと感じてしまうところがあって、そう思ったと同時に、若干白ける思いも禁じえない。…たとえば一列に並んだ、さまざまな手漉き和紙の不定形なかたちのラインナップに混じって、青い表紙の、外国語が印刷された書物なんかもさりげなく並んでる。そういうちょっとした「同一線上での差異の演出」とかがあらわれることで、ああこれは全体が、そういうラインナップの感覚的な何かを感じさせたいのだな。という結論になってしまって、一個一個のモノ達が持ってる筈の独自な声を聴こうとする気分に水がさされてしまう。。


多分、実際に地図上に書かれたその道を歩いた事だとか、そのときの私の感触・記憶みたいなそういう事が、作品が結晶していくための最初のきっかけとしてあるので、その派生として、昔の同じ場所の地図が召還されたりとか、いろいろ作品の幅が広がっていく可能性(?)もいっぱい含んでいるのだが、それでも結果として目の前にある、あの、糸やなんかの目の前の断片のキレイさと、そういうのがどう繋がっているのか?がはっきり判らず、ましてや何か別のものも並べてラインナップの演出なんかもやられると、なおさら余計によく判らなくなる。という引っ掛かりを感じた。


千葉奈穂子氏も、作品が結晶していくための最初のきっかけとして、家族とか家の記憶(というか写真イメージ)が大量に召還されるのだが、実際に目の前にある作品は、成島和紙にサイアノタイプ、木製パネル…といった素材から構築された、なんだか恐ろしく立派な美術作品ぽくて、こういう作品を作品として仕上げていくときの感覚とかテクニックとかって、実はもう家とか家族とか、そういう当初浮かんでいたイメージとは、もはや全然無関係でしょ?家族とか、それに纏わる何かドロドロした感触とかが、もう爽快なくらい自作にとっての「ネタ」でしかないんじゃない?実際、制作中は家族の事なんか微塵もこれっぽっちも思い出してないでしょ??…とか、つい意地悪なことを考えたくなるほど、ものすごいがっしりとした物質の抵抗感がすごい立派な「美術作品」なのであった。。作品自体の力強さはすごいので見応えがあるが…だから余計に複雑なのだ。


しばたゆり氏は、作品が結晶していくためのきっかけとしてまず私や周囲の物質だとか、とりあえず私が感知できて手に取れる何かであれば、一切合財全部、ウチのヒキウスでコナにしてみんな絵の素材にしてあげるわ!という…ほとんど赤頭巾ちゃんに出てくる怖いおばあさんみたいな感じが、ある意味「キャラ」として立つかもなーという感じで、こうなると逆に「もう誰にも止められない感」が漂うというか、これはこれで良いのかもと思ったが、でも髪の毛とか血液とか骨とかが出てくる時点で僕はちょっと軽く引いてしまう。。


…っていうか、そんな事よりもっと肝心なのは、実際、作られた「作品」がどれも、結局すごいちゃんと「美術然」していて、まあそれなりに皆キレイで、ちゃんと美術作品風でカッコよく仕上がっていて、でも埃の版画作品なんか、うず高く積み上げて、その全体の一部しか見えないような展示方法だったり(そのくせ、想像だけどこれ一枚買いたいと言ったら、きっと一枚幾らとかで販売するのだろうか?…って、それこそ売っても当たり前で悪くも何とも無いし、そんな事ここで書く僕の方がおかしいのだろうけど、どうもこういう作品でも、もし請われればそういう販売を行うなら、なんかちょっと欺瞞的な気もする。僕の考えが間違ってるかもしれないが…)とか、未だ未完成で、外部と相互に関わりつつ完成に近づく事が匂わされたりとか、こういうところも秋山さやか氏同様、ラインナップの感覚的な何か、というか、作品よりはその行為を実施する私。の方にあからさまに重点が置かれてるところなんかが、イマイチ白けてしまうようなところではある。(要するに、僕は仮に作品を買う場合でも、モノに金は払っても良いけど、行為の残滓とか痕跡とかには、金を払いたくない。という考え方の人間だという事かもしれない。)


総じて、「作品が結晶していくためのきっかけ」→「実際の作品」がかけ離れすぎなのだと思う。これは野田哲也氏の展示を見た際にも感じたことだ。実際、作品が美的であること程、作り手にとって快楽的なことはない。どうしてもそこに留まりたいのだけれど、でも多分、それは際限無しになるのは許されない。(でも全く無いのも堪らないのだけど)なんだかんだ言っても僕も、ほんの少しの油断で簡単に甘さに吸い寄せられるだろう。普通に考えて、上記の人々の足元にも及ばぬ地点で、くるくるスピンしてるだけの状態に陥る可能性も充分高い。なのでまあ、僕もせいぜい頑張りましょう。