「hendrix」という映画DVDが600円で売ってたので買って観ていた。ジミヘンの伝記映画なのだが、主演のジミ役俳優の顔以外、すごい現実のイメージに似ていて、その努力がすごかった。俳優の演技だって、表情とか歌い方とかしぐさとか、そういうののモノマネの訓練度がすごい。モンタレーでもウッドストックでも、とにかく現存してる映像と比較される事を異様に気にしていて、それらと完全にそっくりなイメージを作ることに全精力が注がれていて、ある意味呆れるほどであった。。
で、まあその映画自体はともかくジミヘンの生涯を大変正しく説明してくれるのだが、最初の方のハーレム下積み時代にCAFE WHAにスカウトされたとき「グリニッジヴィレッジなんて金持ちの白人ばっかりよ。なんでハーレムじゃダメなの?」と恋人に問われて「ボブディランだって出たんだ」と答えたりとか、イギリス行きを持ちかけられたときも「エリッククラプトンに合わせてくれるなら行く」と言ったという話とか…とにかく、この生粋の黒人である筈のジミという人は、もう全然普通に、当時の白人音楽に傾倒していて、心からインスパイアされていた。で、当時ブリティッシュ・インベンションに沸き立つイギリスで、まったくのノンルーツ・ノンジャンルミュージックを演奏し始める事になる。
しかし、なぜこのように、最初から全く何の保証も価値付けも無い、新鮮さだけでしかないような音楽を演奏できたのだろうか?そのサウンドの価値を自ら信じる事ができたというのが、途轍もなく不思議な事に感じる。初めてのバンド、ジミ・ヘンドリクス・エクスペリエンスは黒人のジミと二人の白人リズムセクションを持つトリオ編成であった。勿論、当時人気のあった白人サイケデリック・ハード・ブルース・ロックバンド「クリーム」の編成を踏襲していた。こうしてアメリカの黒人歌手がイギリスで白人のロックを演奏し、知名度を高め、本国アメリカに逆輸入されるのであった。
ジミにとって、音楽はブラックとしてのアイデンティティーを示したりするものでは無いし、黒人同胞の活動の応援歌や賛同メッセージでも無かった。そのように鳴る音楽というのを、想像できなかったのかもしれない。だから同胞に対して惜しみない協力を望みながらも、その方法が判らず悩み、それがもとで誤解を受けて更に苦しんだ。ジミの音楽は、宇宙であるとか鏡の中であるとか、そのような世界に人を誘い、争いや人種差別の闇から自然と人を救うような「エレクトリック・チャーチ・ミュージック」であり、自分はジュークボックスではなくて「パブリック・サキソフォン」なんだと、ほぼ絵空事のようなイメージを燃料に生きたのであった。
このような、自分の目の前の現実と地続きではない、ある想像上の仮定の空間に何かを展開させようとするアイデンティティイのスタイルは、Pファンク系ミュージシャンとかソウルやディスコにも伝播しつつ、今も主にデトロイト周辺のミュージシャンに、不思議と絶える事の無い伝統のように、継承されて続けているようだ。このあたりの事は野田努の名著「ブラック・マシーン・ミュージック」で余すこと所無く書かれている。久々にこの本を再読したい気分である。
…それにしても画材がなくなって来た。と思って買わなきゃとか思いつつ3週間くらい経ってしまっていて、いよいよ買わないとやばい。
作品を描いていて、画面上が濡れているときの感じがすごく良い。っていう事を前にも書いたが、この水分が乾いて飛んで、画面が乾いたときのしょぼさが、ほんとうにイヤになるくらい結構厳しい。これはまあ、やり方の問題でもあるが、色鉛筆という素材のもってるポテンシャルが、この程度でしかないというところもある。油絵の具とかアクリルとかの発色っていうのは、それと較べるとものすごいものである。というか、それは発色という言葉が適切ではないほど、パワーに満ち満ちている。もう排気量が桁違いのエンジン。という事であり、一挙手一投足のあらわれ方が、存在感からして桁違いなので、まあ言ってみれば、その素材元々のパワーの分だけ「得」なのだが、逆にそこからのスタートなので、細やかさとか微妙さの操作の結果が、どうしたってあまり幅の無い均質な感じになる(…というのは想像の理屈に過ぎないが…)
僕はもう高校生の頃からある傾向があって、二十代半ばではっきり自覚したのだが、描くという事が、あの柔らかい絵の具を画面に置くことであるよりは、硬い筆記用具でカリカリと描く。という行為である事の方によりしっくり来るという傾向がある。だから今、油彩表現というのが、あまり好きではない(と一応定義している。というか便宜的に現状そう定義してしまった。)。塗り重ねるとか、ある一定の面積に対して、筆とかで何かやる事を自分の中に上手く位置付けられない(と、一応定義している。便宜的に)なので、全部カリカリ描くために、色鉛筆を使っているのだが、やはり発色とか強さなどにおいては、相当辛いものがある。
とはいえ、その砂を噛むようなしょぼい感じは、実はそんなに悪くないとも思っていて、なんかまあ、この感じの中でゆっくりと質を高めていく事が大事だろうと思っている。昔はよく、「ちまちま延々と描いても、いざ展示スペースに搬入すると、自分の絵があまりにもしょぼくて、如何に狭い視野で見てたかっていうのが、如実に判ったりするよね」なんていう事を言ったり言われたりしたけど、今思うのはむしろ、そういう場所でしょぼかろうが何だろうが、とにかく自分が自分の目で、納得いく質にまで高める事が最優先であるという事だ。そりゃ一覧形式でざっと観られたときに、強いか弱いかっつったら、強い方が何かと得かもしれないが、でもそんな事は何の関係もない事だ。