「シャルル・ド・ゴール」福田和也


第二次大戦とは何だったのか (ちくま文庫)
(「第二次大戦とは何だったのか?」所収、下記引用も全て同書より)


状況を見つめ、思考し、適切な判断を下す。今、現状でもっともふさわしい振る舞いを探る事。そのような芸術家。それは徹底的に「正しく」あろうとする意志でもあり、同時に徹底的に「勝利」を重ね「生き残る」事に執心する意志である。それは「勝利」を目指す、健全極まりない人間の飽く事なき営為であろう。しかしそれを正面から否定するかのような言説がある。例えば下記のような。

保田與重郎は、真の文学は敗者のそれであり、勝者の文学は総て御用文学だと云った。その意味で彼の作品はいずれも御用文学である。
 マルローが何の御用を務めたのか、一言で決める事は出来ない。ある時にはコミンテルンだったろう。またある時には反ファシズムであり、レジスタンスであったろう、また民主主義であり、人類であり、ヒューマニズムだろう。

「私はアンドレ・マルローが好きではない。」


「その時点で疑い無く正しい何物かの御用を務めて東奔西走し、文学と称している」マルローもまた、そういう沢山の文学者の一人なのだと福田和也は云いたげだ。では、そうではない「敗者の文学」という名の冠がふさわしい者とは誰か?もしかすると世の芸術家にふさわしい振る舞いとして「歴史上の人物」と対話を試みにやって来るマルローよりは、その対話の相手であり、フランスの陸軍軍人であり、大統領でもあったシャルル・ド・ゴールの方が、よりふさわしいのではないか?


ナチス侵攻によりパリが陥落すると、フランスは休戦をドイツに乞い、都を追われつつ急場凌ぎながら正当に樹立したペタン率いるヴィシー政権は国民にとにかく今日以降は平和である事を国民に告げる。ただド・ゴールだけが、亡命先イギリスのBBC放送を通じてフランス国民に呼びかける。


「希望は消えねばならぬのか。われわれは最終的には敗けるのか。ノン。フランスはひとりぼっちではない。」


「フランスは降伏していない。フランスは継戦している。」と言張りつつ、チャーチルルーズヴェルトを相手の駆け引きにおいてあろうことか「勝利」してしまう。それにより何を賭け、何を求めるのか?何を得られるのか??…いやしかし、そんな事よりも、そのような行為の只中に居る自分に、いささかの疑いも持たないという事。自分の脳内のイメージの強度を、まったく疑いもしないという事。おそらくその脳内イメージはもはや「現実のフランス」とかけ離れた何かで、もう誰も信じてなどいないような、この長身の指導者の頭の中だけに執拗にイメージされているに過ぎないような「もうひとつのフランス・闘い続けているフランス」…しかし、試みられているのはずっと、それを目の前に物質として具現化させるための、たった一人の人間に可能な驚くべき技術の行使なのだ。っていうか、それって普通に「狂人」じゃないの??ってなもんだが、それでも遂に世界はそれを了承せざるを得ない事態まで導かれていくのだ。


こうしてフランスは最終的に、第二次世界大戦において「戦勝国」としての権利を握る事になるだろう。手持ちのマイナスの札が、奇蹟のように、ロイヤル・ストレート・フラッシュに変わるという事。(勿論この後、歴史のヴェールが剥がされレジスタンス神話とかが解体していく有様を見つめる勇気を求められていくのだろうが)

もっと踏み込んで云えば、政治の本質というのは、ほとんど文学である。

政治が画定し、あるいはその内と外から、それを存在せしめ、解消しようとする「国」という領域に拘る仕事というのは、むしろ文芸と呼ぶべきであるかもしれない。国を扱い、その存立に拘る政治家の営為は、文学者の仕事に似ていながら、文士が欲して及ぶ事が出来ない言葉の根に関わる孤独な営為なのではないか。


しかし、そのような信念の持続を、イメージを持ち続ける事の持続を可能にする力こそが「敗北」の傷なのだと云うとき、それは如何なるものなのだろうか。もはや何物にも動じないほど、徹底的に敗れ去っている箇所を出自に持つこと。その強さ。それは誰よりも現実を認識できる者だけが、イメージする事を許される、想像を絶する程過酷な「負のフランス」ではなかろうか。それを抱え、誰よりも不幸である事、誰よりも貧しくある事が、既にその時点で、一大大逆転現象を起こすべく、一挙に沸騰し始める。