「2/デュオ」


上野ツタヤに突然VHSが入荷されたのでレンタル。西島秀俊と柳愛里が仲良くカップルである。ずーっと回しっ放しになっているカメラの前で、「あ、お菓子買ってきて」「どんなの?」「なんでもいい」「甘いのしょっぱいの?」「どっちでもいい」みたいな会話とかが非常に自然でかつ現実っぽくて、特に脚本なしの即興芝居なのだろうという事が何となく感じられる。西島が待ち合わせに遅刻してきたときのやり取りも「遅い」「時計しなさい」「嫌いとかそういう問題じゃないでしょ」「わかるわけないか」「いいよずーっと遅刻してきなさい」みたいな相当甘やかなやり取りで良い感じである。


しかし西島の「結婚しようか」というセリフが何か決定的な一言として二人の間をギクシャクさせはじめる。妙な気まずさのまま二人は別れ、直後に柳愛里が劇中の登場人物とは違う撮影スタッフらしき人と素で話し合うシーンに移る。そこでなぜ、柳が演じてる登場人物が「結婚」という言葉にたじろいでしまったのか?が柳自身によって自省され検討される。


…まあわかってはいるのだけど、こういうのはやっぱり何か白けてしまう。なーんだ「そういう映画」かと思ってしまう。そう思ってしまうと、中盤で西島がキレまくるところとか柳がほとんど精神疾患的状態にまで追い込まれて、関係自体ぐしゃぐしゃにダウンしていくところとかも、もうその後に起こることすべてがイカニモな感じにしか思えず、なんとも面白くない気分を抱えながら観続ける事を強制されてしまい全体的に退屈した。


しかし、じゃあ僕にとって映画がどうなら面白いのか?という事を自省させてくれる意味においてはなかなか良い映画だったかもしれない。というか「本当らしさ」が面白さではないのだ、という事はよくわかる。たしかに西島と柳は、この映画のために芝居をしているだけであって本当に揉めてる最中の恋人同士ではない。部屋で話をしながら最終的にあのようにキレて無茶苦茶にモノを投げたりワヤになったりしてしまうのも、自分の気持ちが上手く云えないからとか、相手の不理解とか、やり場の無い怒りとか、そういう事ではなくて、そういう何かを表出せしめるためのアクション(仕事)としてやっているのであり、もっと云えば、スタッフに囲まれてカメラが回ってる中で、何かしらもっともらしいやり取りをして、何がしかの結論的な場所にまで行き付く、という事を繰り返していかなければ、もう撮影というのはどうしようもないのだから、その強制の枠に背中を押されているところもあるし、その緊張感や不安が相当あるだろう(芝居として「キレる」選択をしてしまった事の咄嗟に浮かぶ不安や自己嫌悪やそれを受けざるを得ない相手への気遣いすらあるだろう。あるいは相手の動きの予想のつかなさや退屈さを感じてもいるだろう。でも総じて、基本的には自分の力をフル回転させた一生懸命さなのだろう。)


しかし、「現実」の世界でいろんな人々が繰り広げている痴話ケンカというものが、前述の芝居において生成されたモノとまったく違った内実をもっていて、印象や何かも全然違うのか?といったら、当然の事ながらまったく違っていないのであって、大体がああいう感じなのだろうと思う。だからあのやり取りは「現実に近い」とか、そういう言葉自体がもはや成立しない。すなわちあの映画で延々観せられているのは、本当に誰か知らんけど男女二人の単なるリアルな痴話ケンカなのであって、実はこの映画にはスリリングな映画/現実との境界線とかはかなり少ないと思う。単に何か映ってるのだ。で、そこが退屈なのだ。只単に男と女が「本当に(あるいは芝居として本当に)」セックスしてるのをずーっと撮影してる映像が退屈だというのに近いかもしれない。


全編通じて、良かったのは西島秀俊や渡辺真紀子という俳優が醸し出している感じくらいであった。結局、このふたりが醸し出してるある種の感じというのは、「芝居」とか「現実」とかいう話の括りでは捉えきれないようなもので、役者の固有性に基づくようなものだと思う。で、それこそは理屈ぬきで面白いと思える何かなのだ。だからそういうのは結局「いやー西島秀俊いいよねえ」という話だけで終わってしまうのだから、それこそ言葉として全然面白くないのだがでもしょうがない。…しかし、「面白さ」というのはやはり、常に画面の内容を観つつ同時にそれを観ている自分自身の「現実」をも参照して、たえず比較し合いながらでないと感じられないものなのだろうか?なんかそれだと「一杯のかけそばの話を聞いて泣く」とかの次元から逃れられないのではないかとすら思うが。。殊にテーマが恋愛だったりすると、そういう心の流れ方は避けがたい。…そういうのを強く感じさせて余計にイヤな気持ちにさせるのも、この映画なのだが。