「エドワード・ヤンの恋愛時代」


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VHSにて。本作を再生し始めてすぐ、ああ何年か前にも一度観てるなぁと思い出したのだが、物語の内容は全くおぼえてなかった。で、冒頭から容赦なく押し寄せてくる圧倒的に素晴らしい展開のスピードに驚き、あぁこんな映画だったっけ?と思いながら体をやや緊張させて集中力を上げ、生成し続けられる夥しい出来事の数々を感受し続け、やがて意識全部が映画の中に没入していく。


速射砲のようなパワーで進行していくのがもう、まさに才気ほとばしるというか、誰の事も置き去りにしてやるぜ!!という作り手のものすごい自信に満ち溢れてるというか…これが現代映画なんだぜ!!という事だろうか。そういう自負心というか、最前線を駆ける者特有のぶっ飛び方というのがむせ返るほど横溢してる感じ。…僕の場合何しろ、そういう(どういう?)映画史的文脈も知らないままで観てるのでアレな訳だが、相当気合入ってるとは感じられる。…もちろんその気合は(ここまで過激なのに)作り手の独りよがりとかそういう感じでは全く無くて、このお話がこのようなやり方でしかあらわす事の出来ないという必然性に支えられている事が強く感じられるし、そういう意味での自信に満ち溢れているのだと思う。


実際、モーリーとチチとの微妙極まりない友情が、どこまで行ってもかろうじて掻き消えずに灯火を残し続けているのをみているとやっぱり感動するし、モーリーの姉の旦那の小説家の、如何にも勝手な性格でありながらどうにも憎めない感じに笑ってしまうし(急停車した車のケツにぶつかる、というシーンは最高である。確かに現実でも映画でも、ああいう事故は前代未聞だろう。。思わず手を叩いて喜んでしまった)(あとあの部屋最高。窓ガラスといい本棚のない書籍の並べ方といい、すごく良い部屋だ。)、チチの恋人ミンの不思議な魅力も、ずーっと感じ続けているのだ。あと僕はモーリーという女性の苛立ち方とか怒りや面倒事にうんざりする気分とかも何となく嫌じゃなくて、ずっと寄り添っていたいような気持ちで観てしまった。…でも、いずれにせよ本作を観てる人間は、この映画の登場人物の誰一人にも感情移入できないし、その行動を理解する事なども出来ないのだが、あいつはああいう奴、と勝手に仄かにずーっと思い続けるのだ。それは今までとまったく意味の違う感情移入である。というかその根拠の無い思い込みとか手応えのなさの滑稽さ自体にすごく切ないリアリティを感じつつ画面を見つめるのだ。


特に後半は激しい口論が延々続きややうんざり、というか逆に笑えてくる程であるが、ぐしゃぐしゃに絡み合った関係の糸が、終いにラリーを大激怒させた後、アキンがそのラリーをまるでモノのように、閉まりかけたエレベータの中に押し込んで、清々したとでも云うかのようにガランとしたバーディのスタジオをふらふら歩いていると、そこには未だバーディのアシスタントの女の子が居て床を掃除してたりする。この映画ではこういうものすごく微妙な「せつなさ攻撃」とかが本当に上手い。冴え渡るセンス、といった感じだ。ラストでのチチとミンのやり取りも同様。これ感動しない人いないだろう?という感じ。ラストだけチチの服がキレイな赤のワンピースな理由も、最後のショックを高める為かしら?とさえ思ってしまう。