帰省


正月は例年通り妻と実家に帰ったのだが、都心から一時間ばかり掛かってたどり着くその駅は数ヶ月前からかなり大掛かりな再開発が準備されているらしく、いくつかの店舗が工事のため既に立ち退いており、道路はところどころ舗装し直されてガードレールなども部分的に設置され直していて、古ぼけてて錆付いたものと、新しいものが何の配慮もなく混在しており全体的にかなりとっ散らかった感じの風景になっていた。


実家は駅からかなり遠くて、殺風景な景色の中を妻と二人でとぼとぼと歩いたのだが、その容赦のない剥き出しの荒涼感というか、完全にうち捨てられて放置されたまま時間だけが堆積しているような、都心から一時間圏内の市町村の景色にはありがちな光景がひたすら広がっているのを目の当たりにして、はじめて見た訳でもないのに今更のように改めて強いショックを受ける。


…それは住宅や壁や塀や木々や雑草や道路標識や放置自転車などの様相なのだが、それだけではなくそこで営まれている生活とか人々が織り成すリズムや間合いなどの空気が、そのまま固着して風雪に晒されてボロボロに朽ち果てている状態そのもので、旧き良き街並みなどというイメージとはまるで違う、むしろその対極にある絶望的なもので、それはおそらく木材や石材と違って合成樹脂が劣化するという事の独自な質感が醸しだすものであり、例えばプラスチックの洗濯バサミのピンク色の鮮やかさが30年後もそのままの禍々しさを湛えている癖に手で触れると砂のようにぼろぼろと手の中で崩れて色あせた破片になってしまうかのような、何の感情とも交じり合わない寒々しい凄まじさであって、景色全体がそのようなものと化している予感に身震いがした。


いや、それだとまるで過疎化した地方のようにも思われるけどここで云ってる感覚はそれとは全く別で、むしろ、この町は別に昔と何も変わっておらず、僕が居た頃と較べて著しく人口が減少したなんていう事もないだろうし、おおむね延々問題なく稼動し続けているのである。でも、そこには今までになかったような何か凄まじいあきらめが漂っているというか、あらゆる営みから潤いや新鮮さや喜びや驚きや発見がすべて取り除かれたような感じの、ほとんどひたすら何十年も昆虫のように無機的に緩慢に動作し続ける世界のようにも見えた。当たり前だけどあの家々には今でも住人が住んでいるし、駐車場にあるあの車はまだ動くだろうし、あの自転車だって昨日も今日も使われているのだろうし、ゴミ集積場には生ゴミが集められているし不審者を警戒する看板だってあるのだ。…それはそうなのだけれど、しかし、それら全ての何という空虚さだろう。というか、この景色だけがそうなのではなくて、これが今の僕の生活環境の現実なのだ。


狭い舗装道路を無理矢理車が通り抜けていく。柿の木にオレンジの実がなっている。墓場の墓標が塀越しにいくつも飛び出している。唐突に妙なところに異常なペンキの赤で塗られた鳥居が立っていて、奥まったところで何か朽ち果てている。養豚場の汚いシートが寒風にバタバタと煽られている。豚は一匹も居ない。神経症のように妙なかたちに駆りそろえられた植木が延々並べられている…これら全部がまるで悪夢みたい。


帰りの電車の中でも夥しい量の中吊り広告を見つめていて、これらの色とりどりの文字と写真すべての、何と押し付けがましく暴力的なことだろうと今更のように思う。それは只ひたすら暴力的で、悪意とかの感情が生じる余地すら欠いた、どこにも取り付くしまのないような暴力で、…というか、これらに取り囲まれている僕達が、細い糸のように掴んでいると信じている「秩序」とかの、何とはかないものだろうと思う。こんな場所で、冗談抜きで、正気でいられるだけでも大したものだろうと思う。この世界にAさんとBさんが居たとしたら、その二人はもう、金輪際絶対に出会わないし、お互いを想像してみることさえないのだろうという事が、とてもあっさりと腑に落ちる。僕の幸福と君の幸福は絶対に交差しないだろうね、当たり前だけど一生縁がないって事だね…それが現実なのかもしれない。まあでもそう思うか思わないかのギリギリのところで、それこそ正気を保ちつつ頑張るしかないのだが。