「妻」


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CS放映を録画で。…一緒に観ていた妻がお話の途中で「これは夫婦で見る映画ではないでしょう」とかなり不満そうに云うのである。それを聞いて僕はやや呆れてしまい「お前これは只の映画であって、お話なんかも完全に紋切り型の、なんでもないような不倫話なんだから、そんなマトモに反発することないだろう?そんなドラマいくらでもあるだろう?」と云ったのである。妻はなぜか、それでも納得しかねるような表情で、黙って画面を見つめ、僕も微妙な一抹の不安をぼやっと胸に抱いたまま、集中力を再び画面に戻す。


ところが、物語が展開するにつれて、先程の妻の言葉に少しずつ重みが加わっていくのである。浮気相手と上原があれよあれよと云う間に、逢瀬を重ねるようになると、傍らで画面を観ている妻が、その胸中で、明らかに不快指数を上げているのが感じられて、こちらは気が気ではない。前半での、夫を疑いもしていない段階の高峰三枝子の、だらっと警戒を解いただらしない奥さんの態度の演技は本当に素晴らしいのだが、その素晴らしさすら、もう程々にしてほしいとの思いを禁じえないくらい「悪い方」へと作用してしまう。。


大体、いつもの事だが、殊に本作での上原謙の家庭とか妻を軽んじる幼児的な非人間性は只事ではない。もう水が高いとこから低いとこに流れるように、あっさり不倫に走るので、見てるこちらは面喰って「おいおいおい!それはまずいよまずいよ!いくらなんでも」と思わずにはいられない。ってかお前ほんとうにばかなんだろう?と云いたくなる。物事にはもう少し屈託とか含羞とかあるだろ?お前みたいなキャラは古今東西あんまり例を見ないぞ?とも云いたくなるが、そんな言葉を遥か置去りにして、上原クンは平然と浮気するのである。


「私は貴方の心がここにないのが寂しいんです。辛いんです。」という高峰の悲痛極まりない呼びかけを、雑音に耳を塞ぐかのごとく平然と背中を向けて無視して、そのまま布団にもぐる上原の態度を観た瞬間、我が妻の胸中に静かに青白く燃えていた怒りの炎がいよいよ、ぼっ!!と火力を上げた音がこちらまで聴こえ、こちらは既に生きた心地がしない。マジで焦る。成瀬よ頼むこの後何とかしてくれよ、と祈る思いで画面を凝視するばかりである。


そしてこの後、この映画の最も凄絶でかつ美しい瞬間が訪れる。高峰が浮気相手の女に直接会いに行くのだ。玄関にまで押しかけ、その後ふたり並んで(!)歩きながら、高峰はゆっくり、しかし確実に自分の思いを言葉にしていく。お茶屋に入って、その後、丹阿弥谷津子がその場を立ち去るまでの一連の流れは言葉を失くす程だ。(「成瀬巳喜男の世界へ」という本の中で蓮實重彦がこの箇所をすさまじい執拗さで書き起こしている。これはすごい。。見つめるとか、視線を逸らすとか、そういう事の官能性にあそこまで敏感でいられるものか?と呆れる。好色にも程がある。この蓮實という人、ほとんど変質者だと思う。本当に良く観てる。読んで思わず「うわぁ負けた…」と感じさせられる。「お前より私の方が愛が深い」とか「激しい嫉妬で云々…」とか、そういうセリフを云う気持ちも、これならよくわかる。そういう芸だよなぁと思う。いや、芸と云うよりかは、もう自分ではどうしようもないような先天的な体質あるいは性的嗜好と云っても良いのだろう。。殺しても只では起きない感じだ…)


…そして浮気相手は身を引き、夫婦の関係は表面的には、今までの平穏な状態に戻る。しかし二人の心にはもはや、今までとは明確に違うしこりというか違和感のようなものが生じているのだ。このようなわだかまりを抱えたままやっていけるのか?あるいは別れてしまうべきなのか?それともこのような気持ちの宙吊りに耐えつつ日々を送るのが夫婦というものの本来の姿なのか?…映画は観る者に、最後そのような投げかけを与えて終わる。


…っていうかこっちに投げかけんなよ!という話である。"終"が出て、うわーこれは最悪の事態ではあるまいか?とも思ったのだが、でもそれだけではない確かな感動があって、その勢いのまま僕はすぐに妻に「この映画でずーっと感情移入するのはやっぱ高峰三枝子に対してだよ。観てる人が男とか女とか関係ないよ。高峰があそこで、妻としてのすごい狭い限定された領域で精一杯考えて、自分の意志で相手に会いに行って、とにかく問題を解決したのって良くない?そこを観る映画でしょこれは。男はアレは…もうマンガみたいな人間であんまり意味ないじゃん。あの高峰の最後が一番大切でしょ」とか、いつもより妙に早口な口調でまくし立てるかのように語ったのであった。…妻は、微妙に納得しかねる顔をしてこっちを見ていた。