「フリータイム」についてのメモ


僕は考え方が固いのかもわからないけど、チェルフィッチュの「フリータイム」では観賞中もその後も、すごく苦い味わいの後味を感じて、その理由はおそらく、どれだけ感動的な30分=永遠の提示があっても、どうしてもそれを大きく包み込む強靱な「30分」以外の膨大な時間とか、どこまでも無機質で、すべて金属バットで粉砕したくなるようなファミレス空間とか、そういう現実の限界をむしろひときわ強く強く感じさせたからだと思う。その強固な縛りがあるから、はじめて30分=永遠などという「妄想」が生まれちゃったのでは?という最悪の想像さえしてしまう。


同じ台詞が異なる役者によって何度かリフレインされる、という形式というか仕組みは確かにすごく新しい揺らぎを感じさせてくれて、それが形式的な面白さを超えて何か他者を想像する事のまったくリスクを怖れないあっけらかんとした肯定のようでもあって、大げさにいえば、これはとてもさりげない人間の根元的優しさの表現とも言えるだろうなあと感じたのだが、そういうのと同時に、さっきのあの言葉をもう一度聞ける、という事で何となく重宝するような、二度おいしいような、そういう感じももった。で、その語りの形式的な新しさとかと共に、特にあの、コーヒーおかわりのシステムについてグダグダとかったるい理屈を店員に言ってるところが二回繰り返されたときは、あれではじめて、そこで行われてるやり取りのくだらなさに面白がりながらも、イラッと来る事ができたし、ああくだらねえなあ、こういう詰まらない決まりを馬鹿正直に繰り返して、ドリンクバーでご自由にどうぞみたいな、そういう砂場のママゴトみたいな事を大の大人がやってるのが今の世の中だなあ、ファミレスでそういうのって有りか無しかとかを異常に気にしてる内に酔っぱらいのおっさんから名前聞かれたりしてるとか、…ああもう総じて死にたくなるよね(笑)と思って本当にうんざりしながら楽しんだ。それで、単にあの朗々としていながらも自信なさげに震えるようなあの女性の声を哀れみつつも喜んだ。


チェルフィッチュと呼ばれる劇団の作る作品がすごい、と思うのは、どれも結構ベタに風俗を取り入れてる癖に、そこにあんまり癒着しないところだ。というか、どっちかっていうと、いわゆる文学的・美術史的・演劇的・何でもいいけど、批評とかが好きで敬虔に「進化論」を信仰してそうな人たちをくすぐらせるような、形式至上主義な人が驚喜しそうな、そういう感じでありながらも、そこにもまったく癒着せず、下手するともう、青年コミックス的といっても良いくらいの、何かベタに人生論っぽいところに行ってしまう事も辞さないくらいの度量がある感じで、でも絶対ベタにそこにはハマらないという、そういうのがなかなかすごいなあと思う。これは人生を豊かにするというか、人生の役に立つ作品でもあるよなあと思う。要するに結構「熱いハート」で作られた作品だと思う。