マティスの事など


マティスというと、とてつもなく鮮やかな色彩とか奔放な線とか形態とかというイメージが強いが、実際観ると意外にも印象深いのが、とてもつつましい絵の具の量と、くすんでいて、かすれていて、削り取られていて、その画面上での行為がそのままで定着させられている感じである。ボナールが画面の上で何色かの色彩を混色させたり微妙なコントロールで重ねていって、絵の具同士の混濁・浸潤・沈滞によって、独自な色と光の表出を実現させるのに対して、マティスは元々ある物質としての絵の具を拭き取ったり削ぎ落としたりする事で、いわば「かすれ」とか「こすれ」とかの欠落感を大いに利用して画面をつくる事が極めて多いように思える。ボナールが「足し算」で絵を作るのに比して、マティスは「引き算」の手数が多いのだ。何かの作業の途中というか、何かの工程の途中段階を、その新鮮さが逃げないうちに、さっと「完成」の烙印を押してしまう技の手際の良さ。マティスの作品から受けるすぱっと爽やかな気持ちよさはそのようなところにあるのかもしれない。


しかしマティスの画集とかカタログ図版を観てると何か、たとえば文学作品を「あらすじで読むなんとか」で読んでるような気になってくる。ってかマティスって印刷図版で観てもほとんど意味不明に近いところがある。ちなみに2004年の上野西洋美術館でやった「マティス展」のカタログを観ていて改めて、点数にしろボリュームにしろ、これは結構すごい展覧会だったのだと今更のように思った。


ところで、そのカタログに載ってる「ヴァリエーション」の写真の、一作品が一週間くらいかけて描かれていく仕事の、日毎の連続写真を見ると、ある前日とその翌日の成果に、何か明確なつながりというのが感じられない。右の肩のラインが翌日になって、やや下に修正され、それによって右腕全体がやや下におろされたようになったとしても、それが改善なのか改悪なのかは、まったく判断不可能である。ただはっきりしている事は、前日になくて翌日にあるのは、前日描かれていた線の痕跡が、翌日の線から少しずれて、ぼわっとした帯のように広がっているという事くらいだ。


しかし面白いのは、場合によってはそのような痕跡と修正後の線が、その更に数日後には丸ごとすべてキレイに消去されてしまう事もあるという事だ。…色々と細かく修正してたけど、これだったら最初から描いたのと一緒じゃん。とか云いたくなるくらい、ほぼすべてを大幅にやり直している事も往々にしてある。でもそれは絶対に最初から描いてるのと一緒ではないのだ。それはまるで違うのだが、…でもやはり引っかかるのは、結果的にそこまで激しくリセットされる事もあるのだったら、やっぱり「プロセス」とか「バリエーション」とかいってわざわざ見せる事自体の意味がなくなるのでは?という事だ。あるひとつの目的を目掛けた試みが、成功したり失敗したりする、そのありさまを開陳しようとしてるんじゃないの?…しかしそんな浅はかに分かりやすい「ストーリー」など、マティスの絵にはみじんもない。


だったら、世間の評判に対して「オレは適当に簡単に描いてる訳じゃないんだ、一点完成させるために、最低でもこれだけの仕事してるんだよ」という事を証明したいだけだった?しかしそれも疑わしい。そんな事のために最初から手の内の公開を目論む?それはないだろう。晒す作品は厳しく選別されて然るべきだからである。ここで試されてるのは「途中段階」とか「傷もの」とか「Bランク落ち」とか「ボツにしたアウトテイク」とかも含めてすべて見せます、というような事でもないのだろう。


マティスはおそらく自分の仕事で想定してた目的とか思惑とかと、現実にあらわれた結果の、不本意だったり思った通りだったりするときのばらつきをそのまま観てもらおうとしている訳では全然ないのだ。それを要するに「遷移図」のように観てしまう事が、あるいは「進化の図式」のような、「変形プロセス」のように観てしまう事がたぶん、大いなる誤解なんだろう。この連続写真は何かの状態をあらわしてはいるのだろうけど、しかし決して「連続した意味」ではないのだろう。これらはひとつひとつがばらばらで、どれが優れているとか劣っているとかいう話ですら無いのだろう。その意味では「ヴァリエーション」ではあっても決して「プロセス」とは言い切れないのかもしれない。