空腹について


大島弓子「ダイエット」という作品の中の登場人物である福子は、物語の中で何度も痩せたり太ったりを繰り返すのだが、その理由は読者にはあまりよくわからない。美しくなりたいとか、今の自分を変えたいとか、健康的になりたいとか、それらのすぐ思いつきそうな理由のどれでもなさそうで、しかしとにかくある瞬間に、痩せようと思ったそのたびごとに、福子という人物の内面で、そう決意された事は確かだけど、でもその決心に至った理由を誰にでもわかるように明確にする事はできず、想像するしかない。


ところで先日、ヘミングウェイの「移動祝祭日」という本を読み終わったのである。もう2年ほど前に読んだ福田和也の本で紹介されていて、それでこの本は前から読みたかったのだ。しかしもう絶版で、古本で探すとやたらと高価であったため、買うのを躊躇していたのである。…で最近、気まぐれにまたちょっと検索してみたら、割とまあまあの価格で出ていたので、それで思い切ってそれを買った。


しかし僕が小説自体を読むことに慣れていないからだけど、翻訳小説というのは本当に読みにくい。これはおそらく英語で書かれた文章の、訳された結果がこの文章なんだろうなあ、と、さっと読んだ限りではいまいち意味を図りかねるような文章に対して、考えながら読み進めるので、けっこう時間もかかるし、ひとつながりのぼわっとした物語世界がこころの中に生成しにくくて、読むときの集中力を維持するのが疲れる。


などという事を考えながら、それでもまあ思ったよりは早く読み終わってしまって、それで読了した印象というか、ひとまず僕の中ですごく好きに思った箇所が全編中いくつかあって、それは主人公である若きヘミングウェイが貧乏で毎日を空腹で過ごすときの、その空腹感を抱えたままいろいろと考えているところなのだけど、そういう時の感じを想像してなぜかとても好きに思った。好きに思ったというか、ああそういう感覚がうらやましい、と思った。たとえばヘミングウェイは空腹を我慢してリュクサンブール美術館を訪れ、そしてセザンヌの前に立つ。「もしおなかがからっぽで腹ペコだったら、絵はすべて、鋭くなり、いっそう明らかに、いっそう美しく見えるのだった。」とある。そしてセザンヌもこれを描いたとき空腹だったのだろうか?と想像したりするシーンもある。食べたいけど食べるものがない、というときに、その空腹に対してはもうどうしようもないから諦めるしかないのだけど、それ以外のすべての事に対して、イライラと気が立ったりもするだろう。でも、そんな風にイライラした気分の悪循環の中にいても仕方がない。…さあ、気分を変えて今やれる事をやろう、今でこそ感じられる事があるはずだ。やる事をやるためにここで、一瞬でも良いから空腹など忘れて、全力で気持ちを切り替えよう、と考えてるところとか、最近の僕はそういう感じを久しく忘れていると思った。いや僕自身は、口にする食べ物がないほど困窮した経験は今まで一度もないのだから、忘れているという言葉は変で、それって如何にも今の世の中で当たり前に飽食してるヤツが気まぐれに考えそうな事だ、という疑いもあるし、そのような事を平然と書く軽薄さも否めない。


しかし空腹感を抱えている状態でこそ見えるものもある。という言葉には、いくばくかの信憑性があるようにも感じられる。ヘミングウェイは食べたくても食べられなかった訳で、別にダイエットしていた訳ではないけど、でも福子やヘミングウェイのように、断食する事で見えてくるものがあるのだとしたら。…話が戻るけど、痩せようと決意する人の心の中では、美しくなりたいとか、今の自分を変えたいとか、健康的になりたいとか、それ以外の何かの決意があるのだろうけど、その一方で、空腹で居たい。空腹を感じていたい、というのもあるのかもしれないと想像する。私という存在を「細く」したいという…「身体」を細くするのではなくて、「存在」を細くするという事だ。何かもっと、抜本的に暴力的なまでの力で自分を変えたい。それで一挙に私の領域を縮小させたい、世界に対する私の占めている割合をもっと「縦長」にして、それで今より効率的でよりふさわしいなものに修正したい、というような事もあるのかもしれない。それは自殺ではないけれど、自殺にやや近いくらいの、今の生を大幅にやり直す試みだろう。で、それを実施するとき、空腹感は不愉快な苦痛な感覚ではなくなり、むしろ何か自分が浄化されるようなものに変わるのだろう。…まあこういう事を書いてる時点で、如何にも飽食現代な話といえばそれまでだが。