家にいます(WI-FI)


一日家にいたのに、あまり集中力がなくて、どちらかというとわさわさいろんな事をだらだら際限なくやっていたい感じだったので、部屋の掃除とかパソコン周りの整理とかをした。電球を40Wにしたり100Wにしたり、部屋の隅から照らすように位置を変えたり、100円ショップで買ってきた筆箱ケースに筆記具を整理して入れ直したり、そういう事をひたすらやっていた。あとこの間、iPod Touchを買ったのだけど、これって音楽プレイヤーというよりも完全にwi-fi端末としての面白さがすごいモノだったので、とりあえず無線LANとかも揃えて、とりあえず家の中ではどこでもアクセスOKにした。PCの位置も自由度高くなって、気分で移動したりした。狭い家なんだから無線なんて意味ないでしょとか思ってたけど、いやかなり違う。この文章も、書いてる本人としてはかなり新鮮な気分で書いてる。書いてる場所が違うから。


小説とか絵とか音楽とかって、やるのも体験するのも、各自ご自由に。というものだ。で、見事な成果には賞賛が集まるけど、凡庸な成果には集まらない。で、凡庸な成果には賞賛が集まらない、という事をあらかじめ知っている人が、それを気にしながら作品を作ったとして、で、その結果が凡庸なものだったとしたら、それに対しては当然賞賛は集まらないのだが、場合によっては非難が向けられるのかもしれない、と思った。なぜなら、その作品の凡庸さとは、自分が凡庸に終わることをあらかじめ想定して、自己防御のため前もってそのための準備もしているような類の凡庸さだからだ。それは結果に対して覚悟ができてるとはいえないんじゃないの?あなたのやってることを、あなた自身がしんじてないんじゃないの?という突っ込みの余地があるかもしれない。だからそんな突っ込みをされるくらいなら、馬鹿でも何でもいいから一途に信じてる方が、よっぽどいい。


などという結論じゃあ、あまりにも簡単すぎるのだ。おれは馬鹿だから難しいことわかんねーし、とか言って、それでずーっとやり続けられる自信があれば、全力でそれモードでやるけど、それも絶対無理なのだ。だから、なんともどっちつかずの中途半端状態な自分を発見するしかない。


でも、仮にそうだったとしても、それでもやはり、もしそういう事なら、逆にそこから始めるしかないんじゃないだろうか?他人にとっては醜い振る舞いの、目にしたくないようなはしたない営みだったとしても、当人にとってそれが出発点であるのなら、それをまともに引き受けるしか無いのだと思う。まともに?…変な言葉だけど、いわば逃避したり問題を摩り替えたり、いい加減に誤魔化してしまうような、そういう弱い自分を「克服する」ではなくて「そのものとしてまっとうに頑張る」みたいなことになるのだろうか。というか、もっと平気で自分を信頼して、遠いところまで、どこまでも行けば良いのだと思う。気分としてはそれで良いのだ(どうせ大して遠くになんて行けないのだし。行けたら行けたで、それでよかったじゃないですか)


最近ふと思うのだけど「本当に寂しい場所」というのが、この現実の世界にはあるのかなあ?という想像。死ぬ直前に、そういう「本当に寂しい場所」に自分がいたら、それは恐ろしい、死ぬよりも恐ろしいことだろうと思う。思うけどでも、その「本当に寂しい場所」って、今この現実とさほど違わないんじゃないの?という気もする。いやよく世間でいうけど、30後半から40過ぎくらいまでは、それこそ人生で一番キツイみたいな、そういう話とかもあるだろうけど、それってつまり、その時期に「本当に寂しい場所」への耐性ができてしまうという事なのではないだろうか?などと想像する。。それもキツイなあ、このまま死ぬのは切ないなあ、とも思うのだけど、でもまあ、このまま死ぬ、という現実以外の何かが信じられるか?と云ったら、まあ信じにくいという話もある。大方、このまま死ぬのかなあとは思う。