地形線


駅のホームに「三崎口」の観光ポスターが貼ってあって、そのポスター写真は航空写真で、上空から三浦半島の先端部分を見下ろしつつ撮られた写真で、その入江のかたちや湾のかたちが、深く入り組んだ複雑な曲線をなしていて、しかしある部分では人工的に埋め立てられた直線で構成された港もあり、点在する小島もあり停泊する船舶もあって、白い帆のヨットたちが海鳥のように群れをなしていたりもして、自然あって海があって山があって人間の営みがあるみたいな、要するにそれは何の変哲もない、現代を生きる人間であればもう何度も見たような、とっくに見飽きたような凡庸なイメージの海をモチーフにした航空写真なのだが、でも、ああやっぱり海って良いよね、と思った。なぜだかそれが、どこまでも凡庸であればあるほど良いのだと思えた。


それで思い出したのが、もう早くも半月ほど前のことだが、両親の実家へ帰省したとき、行きの行程は車(運転はせず偉そうにふんぞり返ってるだけ…)だったのだが、愛知県の伊良湖から三重県まで、伊勢湾フェリーという定期巡航フェリーに乗って、船が出航すると、それまで立っていた筈の地面が、ぐいぐいと視界から遠ざかりはじめ、やがてそれが海と陸の境目を示すあの線のイメージの、あの地図のかたちを思わせるような何かに変わっていった。そのときのことを思い出した。


進む船のまわりは、あたりまえだがものすごい大量の海水であり、もうどこまでも大量にある海水。としか言いようが無く、その波立つ水面の色合いからも目が離せない感じなのだが、しかしなおも遠ざかっていく伊良湖の港の地形や、近づいてくる小島の地形とかを見ていて、それが地形図とよく似た感じの、線のイメージをもつ何かとして、近づいたり遠ざかったりしていくのがとても不思議な事のように思われた。それが今、「伊勢湾」を横断してる、という事の後付け的な証明でもあって、伊勢湾の地図のイメージと、今、ここで体験されている感覚とが、不思議な重なりを生じており、その状態自体が新鮮だった。そもそも「地図」というのは、あれで正しいと思い込んでいるけど、現実がああいう風になっているというのを自分では確かめられないし、そう思えば別に信用できる根拠などないとも言えるのだが、正否の問題ではなくて、実際に陸を離れて海からさっきまで居た陸地を見返すと、たしかにそこに、地形らしき線は実在するのだ。現実の世界にも、線は存在する、とも言える!現実が、線という抽象に寄り添っているかのようだ。いやもちろん、だからその印象を根拠に地図の内容は真実だよねと証明できる訳でもまったくないのだが、ああ確かにそれは、そういう感じなのかもね、その感じに似てるといえば似てるね、とは思えるくらいの説得力はあるのだ。


…などということを、三崎口の観光ポスターの航空写真を見て思い出していた。イメージが凡庸であればあるほど、それらしきものが、それに近しいものが、いつか不意に現実の空間で目の前にあらわれたとき、なぜだかあまりにも妙な感じに思えて結構笑えるのだ。