狂女斯く語りき(太宰風女性一人称告白体を用いて)


作品を鑑賞していながら、その私というものを根底では疑ってないから、だから、作品を真に受けることができないのね。作品を鑑賞するというのは本来、私をなくしてしまうことなのです。今ここにこうしている私をだんだん消してしまうことなのです。私が存在していないのに世界が存在している状況を、まざまざと見つめることなのです。でもそのことを本気で信じていられないから、だから私はきっと、いつまでも不幸なままなのでしょうね。本当の幸いとはきっと、作品を鑑賞している私が「良くなる」事ではなく、私と作品が両方とも「動く」事なのだと思います。

(中略)

唐突かもしれないけれど、イエスが「汝を愛するが如く汝の隣人を愛せ」といったのは、おそらく作品を鑑賞する際のこころがまえを言っているのだと思うんです。違うかしら?…でも歴史を学ぶとか、過去の前例を知るとか、周囲に配慮するとか、そういう事もいちいちすべて、イエスの言葉から出発するべきだと私は思うんです。学ぶ、とは、他者(隣人)を思うという事であり、技術を磨く、とは配慮の技術を磨くことなんじゃないかしら。

(中略)

えぇ、ご指摘の通り、たしかに私はあまりにも、作品というものを擬人化し過ぎているのかもしれませんわね…。そう。わたしはおそらく、間違っているのです。わたしは、いつでも、異なるふたつの思いに引き裂かれているのよ。たとえば作品にひかれる思いと、片側からだけの恋愛感情というのは、どこか似てるところがあるように思えません?…私本位の、一方的な感情だけでは、相手を誤解し、傷つけ、打ち滅ぼすばかりで、でもその反対に、冷静さと相手への配慮を湛えつつ、本当の正しさを、本当の皆にとっての幸せを少しでも正確に知ろうとするのなら、もしかしたらそれこそが、知性と呼ばれもするような心の営みであったとしても、でもやはりそれはある適切さによって、相手から寂しく遠ざかることにほかならない。狂おしさを手放すことにほかならない。あるいは私が、かつての私でなくなってしまう事にほかならないのだとも思うのです。


…もう、何を書いているのやら自分でもわからなくなってしまいました。こうして熱にうかされたようにして書いても、やはり何も得られず、何の取っ掛かりも見つけられず、手からはらはらと砂の粒がこぼれ落ちてゆくばかりの味気なさで、ただ、明け方になって、いつものように、あのかすかに甘い後悔が胸にのぼってくるのでしょう。いつでも、それだけのことね。やはりどうあっても、私の元に、幸福は訪れないようでございます。